有の以て利を為すは、無の以て用を為せばなり

(老子道徳経 上編道経11)
三十の輻(ふく)、一つの轂(こく)を共にす。其の無に当たって、車の用有り。

埴(つち)を埏(う)ちて以て器を為る。其の無に当たって、器の用有り。

戸牖(こゆう)を鑿(うが)ちて以て室を為る。其の無に当たって、室の用有り。

故に有の以て利を為すは、無の以て用を為せばなり。

【大体の意味内容】
車輪は、三十本の輻(スポーク)が、中心の轂(ハブ)に集まってできている。この轂の中心に、何もない空洞があるからこそ、車輪としての効用を果たすことができる。
粘土をよく練(ね)って延ばし、器を作る。その内部には何もない空洞があるので、さまざまなものを入れる器としての効用を果たすことができる。
戸口や窓をくりぬくことで、家はできている。そうした何もない穴や、内部空間があってこそ、家としての効用を果たすことができる。

これらのことから、存在することによって利益がもたらされるのは、
実は空虚さが元になってこそ、可能なのである。

【お話】
宮本(みやもと)武蔵(むさし)《枯木鳴(こぼくめい)鵙図(げきず)》

東洋の絵画や日本の水墨画には空白が多いことがよく話題になりますが、これなどはその最たるものです。
元祖二刀流の剣豪宮本武蔵の、代表的な絵画作品です。

「枯木鳴(こぼくめい)鵙図(げきず)」とは、「枯れた木の枝に、浮いたようにたたずむ鵙(もず)が鳴いている図」、というほどの意味ですが、
この何もない虚空(こくう)にさらされてなお、凛(りん)とした姿勢で、しずかに遠くをながめる姿に、何とも言えない緊迫感を感じます。
何も描(か)かれていない余白・空白は、決して手抜きで何も描かなかったのではなく、あえて何も描かないことで強烈な気迫や気配を感じさせているわけです。

この上なく静かなたたずまいであるにもかかわらず、根底に裂帛(れっぱく)の気合(きあい)(ピンと張り広げた布を、一瞬にして切り裂くような気合)が潜(ひそ)んでいるような物騒(ぶっそう)さ、まで催(もよお)してしまいます。

ちなみに想像してみてください。
この絵の背景に森とか田園とか、川や池とか、家並みや人々の姿、ほかの動物の姿、
何でもいいのでいろいろ描いてある様子を想像してみてください。
印象が随分変わってしまうでしょう。
少なくとも、つまらない絵になってしまいませんか?

この絵はむしろ、無の虚空(こくう)こそが主役なのではないでしょうか。
その虚空の、殺気のようなものを効果的に際立たせ、感じ取らせるために、最小限度の線描(せんびょう)が施されているに過ぎない。
しかもその線は、百戦錬磨の剣豪が一気に筆を走らせた見事な線、太刀振(たちふ)りのごとき魂の軌道が現れています。

無の力こそ、無限に大きく、深い。