『学修塾ダンデリオン』とは

【ダンデリオン】


「dandelion(ダンディライオン)=たんぽぽ」に由来します。

ご存知の通りたんぽぽはいったんは倒れても、綿毛をつけておきあがり、種を飛ばします。
 
どんなに劣悪な環境でも根を深く強靭に張り、
コンクリートやアスファルトに覆われたところでも
ちょっとしたすきまがあればそこからしなやかに伸びてゆき、
花を咲かせます

そしてまた種を育て、風に乗って旅立つ。

地味ではあるけれど繁殖力が強いので、
私はたんぽぽのようでありたいと、子どものころから願っていました。

塾勤めをするようになってからは、接する児童生徒たちがそのような花であるよう、思いを込めてまいりました。

花言葉としては、「愛の神託」「神託」「誠実」「幸福」そして「別離」。

この「別離」がとても大事だと思います

わかれたことによってそれまで気づかなかった相手のかけがえのなさをしみじみと深く知るということもあります。
わかれることによって、新たな始まりを得る、ということもあります。

でも、こんなことも言えないでしょうか。

わかれることによってその人との関係が永遠のものになると

たとえば何かしら、果たせていない約束が残っているのではないでしょうか。

その約束が、相手とのつながりを決して切らせず、永久に持続させるということが。

塾に勤めることで、これまで多くの児童生徒たちと出会い、分かれてきましたが、

果たせぬ約束」があることで、かれらとの関係はずっと続いていると、私のほうでは勝手に思っています。

せめて、

これから出会う児童生徒たちに、一つ一つ果たしていければ、と思いつつ。

【学修】

この文字使いの熟語は、平成24年8月28日の中央教育審議会答申「新たな未来を築くための大学教育の質的転換に向けて~生涯学び続け、主体的に考える力を育成する大学~」の中で、これからの大学での学び方を表す用語として使われてから注目されるようになりました。
よろしければコチラもご参照ください。

「講義」という言葉に象徴されるような、教員が一方的に学生に向けて解説・講釈する授業からの脱却を図り、

教員と学生が意思疎通を図りつつ、一緒になって切磋琢磨し、相互に刺激を与えながら知的に成長する場を創り、

学生が主体的に問題を発見し解を見いだしていく能動的学修(アクティブ・ラーニング)への転換が必要」

とあります。

これにより、「個々の学生の認知的、倫理的、社会的能力を引き出し、それを鍛える」授業への転換を求めています。
「学生は主体的な学修の体験を重ねてこそ、生涯学び続ける力を修得できる」と。

具体的には、

「学生に授業のための事前の準備(資料の下調べや読書、試行、学生同士のディスカッション、他の専門家等とのコミュニケーション等)、授業の受講(教員の直接指導、その中で教員と学生、学生同士の対話や意思疎通)や事後の展開(授業内容の確認や理解の深化のための探究等)を促す教育上の工夫」などが必要、としています。

「大学生ならそれくらい普通でしょ?」などとおっしゃるなかれ。

ともあれ、ひたすら教えられたことの吸収に専念するのが、従来の「学習」で、

それに加えて自ら探究し、他者との共働を通じて倫理的社会的にも成長してゆくことが「学修」

という図式もはっきり見えてきました。

「学修」という語自体は、諸橋轍次著『大漢和辞典』にも出ているので古くから存在していましたが、この中教審の答申を通じて「学習」との違いもはっきりしてきました。

私なりに定義すると、「学修」とは

「創造的に学び、深く仁徳を修めてゆくこと」

です。

上記の具体的な事前準備・授業受講・事後展開の流れは、むしろ小・中・高校の授業において様々に工夫され続けてきていることでもありましょう。

いま流行の「アクティブ・ラーニング」も、公的な文書ではおそらくこの答申が初見ではないでしょうか。

「能動的学修」と同義に扱われている通り、

これからは小中高のもの学びの現場も、「学修」の場となっていくべき、
いや、

そういう場として回復してゆくべきかと思います。

【学修塾ダンデリオン】

私、本荘雅一(ほんじょうまさかず)が運営する個人塾です。

塾業界に入って満26年。
小・中・高・高卒生・大学生・社会人・保護者様と、様々な年齢層の方々とともに学んでまいりました。

これから迎える激動の時代、目先の結果で満足するのではなく、

真摯に努力すること自体を楽しみ、

他者を生かしまた他者に生かされる喜びを知ることが

本当に大事になります。

「すべてを糧にして生きる」

強靭さです。

そのためにも、他人任せにしない、全人的な絆を、

生徒・保護者様と築きたく存じます。