天長地久

(老子道徳経 上編道経7 天長地久)
天は長く地は久し。
天地の能(よ)く長く且(か)つ久しき所以(ゆえん)の者は、
其の自ら生ぜざるを以(もっ)て、故(ゆえ)に能く長生す。
是を以て聖人は、
其の身を後にして而(しか)も身は先んじ、其の身を外にして而も身は存す。
其の無私なるを以て、故に能く其の私(し)を成す。

【大体の意味内容】
 「天長地久」すなわち天は無限に長く広がり、地は久遠(くおん)に豊穣(ほうじょう)である。
天地自然が永久の存在である根拠は、天地ともに無心であって、自力のみで生きようなどとはしないから、それゆえにかえって長く生き続けるのである。

 したがって、天地の「道理」をわきまえた聖人は、わが身を人の後におきながら、それでいて人々から推されてリーダーとして先立つ。
またわが身を人々の集まりの外側において真っ先に死滅する危険(リスク)を取りながら、それでいてかえって延命生存する。

 きっと私心私欲を持たないからこそ、天神地祇(てんじんちぎ)のおぼえめでたく、自分自身をつらぬき成すのである。

【お話】
 紅白歌合戦で、平井堅の「ノンフィクション」のバックで踊った義足のダンサー大前(おおまえ)光市(こういち)さんが、
とある番組でこう語っていました。

 「俺は紅組でも白組でもない、『負け組』でありたい。」

 不幸のどん底から這(は)い上がって栄光をつかみたい、というのではなく、
他人から見て不幸のどん底かもしれないところで、のたうち回り続けたい、ということです。

けれどそこにこそ本当に生きる力や炎があって、人々を震撼(しんかん)させることを、
彼はどこかで知ったのでしょう。
上の老子の思想にもつながる生きざまだと思います。

 他人に勝って、大きな利益を得たり、ほめたたえられたり、そうやって自分の優越感を満足させようとすればするほど、案外、くだらない、みじめな存在へと堕落(だらく)していったりするものです。
「私」を守り手柄(てがら)を示そうとするあまり他人を貶(おとし)めたり、侮辱(ぶじょく)したり陥(おとしい)れたりしがちで、そうすればするほどみんなから憎(にく)まれたり軽蔑(けいべつ)されたりするからです。

 徹底的に努力精進(しょうじん)している人たちは、成功してもしなくても、

自分は決してひとりで生きているのではなく、何か大いなるもの(サムシング・グレート)によって「生かされている」と感じるものです。

 スポーツの世界では「ゾーンに入る」という言い方がされますが、何か特殊な領域に入って、自分に何かがとりついて、意識しないのに体が勝手に動き出すような感覚にとらわれます。

読書したり文章を書いたりしていても、ふと気がついたら夜が明けていたりすることがあります。
自分が書いたとは到底(とうてい)思えないようなすごいことを書いていて驚くこともあります。

 老子の言う「無為自然(むいしぜん)」とか「無私」とかいったことは、単に何もせず怠(なま)けているということではありません。

とことん努力するという修行(しゅぎょう)の果てにたどり着く、
神憑(かみがか)りや、「ゾーンに入る」といった状態なのでしょう。

その境地に達すると、「自分が為(な)す」のではなく、天地自然によって生かされ、しかもそれが、本来の自分の力を最大限に発揮してしまう状態に、至(いた)っているのです。

この感覚、とてもとても、いいものです。
謙虚(けんきょ)に努力し、最高に「生かされている」快感を、味わってみてください。