もうゆるしてください。あなたの子どもは素晴らしい

 親戚の葬儀の時、火葬場の窯(かま)の前、小さな、あまりにも小さな棺桶(かんおけ)、血を吐くように泣く若い両親を、見てしまったことがあります。内臓がえぐられる感触に苛(さいな)まれるしかありません。苦しい、きつい光景でした。
 実の親に殺されてしまった子の場合、いったいどんな光景になるのか?泣いてくれる親もいない、ただ一人焼かれる。魂はどこへ送られるのかもわからない… およそこれほど救いのない、凄惨(せいさん)な孤独というものがあるでしょうか。
 このような苦しすぎる事件が多すぎる。しかも今回は、5歳の彼女には1歳の弟がいます。両親が生きているのにみなしごのように育てられ、いずれはすべてを知ることになる人生を送る。およそ20年後か、すべての重みが彼にかかってくることを思うと、せめてそれまでは幸せにすごしてほしいとも、それに耐えて生きていくメンタルを鍛えてほしいとも、いったいどう思うべきかわからなくなります。
 子どもたちが理不尽(りふじん)で不条理(ふじょうり)な悲劇に見舞われたときに、社会そのものの息の根が止まりそうな苦しみに私たち大人が襲われるのは、なぜなのでしょう。
 「稚児(ちご)とは生命指標(ライフ・インデックス)だ」と、大学時代の恩師に説かれたことがあります。生命指標(ライフ・インデックス)とは、簡単に言えば、お祭りや運動会のような、時間(じかん)・空間(くうかん)・人間(じんかん)全体の生命力(バイタリティ)が生き生きと発動するスイッチのようなものです。子どもの存在自体が、私たちの生命を活性化させてくれる「生命指標」という児童観人生観を、私たちは太古から無意識に受け継いでいるのです。
 今現在の私だけが、本来の私なのではありません。太古から、同じ遺伝子を持った「私」たちが生きて、死に変わり生まれ変わり続けています。我が子の出産に立ち会った時のことでした。ぬらぬらした肉(にく)塊(かい)が絞(しぼ)り出てきて、その皮がめりめりと剥(は)がれて右手になり左手となった。まるで植物の生長を早送りで見ているような感じ。そうして、大きな糞尿(ふんにょう)の様なそれが人の形を顕(あら)わしました。「私が生まれた」そう素直に直感しました。この瞬間に、「私」の本体が、そっちへ行ってしまったのです。もはや、この私自身は、かりそめのものでしかなく、真新しい剥(む)き出しの「私」に今後奉仕(ほうし)するしかない…
 だから子どもが生まれず、不妊治療や代替(だいたい)出産を模索する人々は、自然に反しているのではありません。太古から連綿(れんめん)する自己の生命が、ここで途絶えて更新(こうしん)されなくなる恐怖が根底(こんてい)にあります。自分自身が死ぬことよりも、新しい生命が生まれない、赤子という、「私」の本体の泣き声や笑い声が聞かれないことのほうが、どうしようもなく恐ろしい。そうした心意が働くことのほうが、ほんとうに自然なことなのです。
 こうして授かった我が子はかわいいい。どうしようもなく。でも同時に、子どもは私の「私物」では決してありません。この町の、この国の、この世界の宝なのです。「私ごときに親が務まるのか」、そう惧(おそ)れ慄(おのの)きながら、奉仕すべきことなのです。私たちは過ちを犯しながらも、子どもたちによって、だんだんと、「親に成らせて」いただいているのです。
 私たちは、歯を食いしばって認識すべきです。実は、あの少女に「20か条のルール」を押し付け、「教育的配慮」を行使し続けた親と、同じ土俵にいるのではないかと。「危険なタックル」の実行を、自分から申し出るように青年を追い込んだ指導者と、同じ「信念」を抱いているのではないか、と。
 「自分の思いどおりにならない子ども」「期待どおりにならない子ども」にイラッときたら、疑ってみるべきなのでしょう。子どもを私物化していないか、と。
 脳漿(のうしょう)が沸騰(ふっとう)して、耳から垂(た)れてくるほどに考えなければならないのは、私たちは子どもに対して「何を為(な)すべきか」ということよりも、「何をしてはいけないか」のほうなのかもしれません。

 もう、ゆるしてあげてください。あなたのこどもはすばらしい。かのじょ、かれは、あなたにほめてもらいたくて、みとめてもらいたくて、けんめいに、いきています。すぐにはうまくいかなくても、しっぱいしても、だらけていても、ずるをしたり、ひきょうなことをしたり、にげたりしても、ほんとうは、よくなりたいのです。あなたにあいされたいのです。しんじれば、いつかはかならずうまくいきます。ちょうどよいときに、ちょうどよいことがおきます。かのじょは、かれは、「あなた」じしんなのですから…