至人の心は鏡の若し

(授業前の素読 荘子三十 応帝王篇第七)

名の尸(し)と為ることなかれ。
謀の府と為ることなかれ。
事の任と為ることなかれ。
知の主と為ることなかれ。

尽を体して窮まりなく、
而して朕(かたち)なきに遊び、
その天より受くる所を尽くして、得るを見ることなかれ。

亦(た)だ虚なるのみ。

至人(しじん)の心を用うることは鏡の若(ごと)し。
将(おく)らず迎えず、
応じて蔵せず。

故に能く物に勝(た)えて傷(そこな)わず。

【大体の意味内容】
立派な名前だけ持っているが、実は屍(しかばね)に過ぎないといったものになってはいけない。
有害な陰謀を張り巡らせる政策(シンク・)集団(タンク)になってはいけない。
大事業の担任に名を連ねて、その功績を我が物にしようなどとはするな。
むやみに知識ばかりコレクションして、博学多識の教養人の振りなどするな。
取るに足らない小さなことのように見えても、その道の奥義を窮めれば、
今自分が取り組んでいる仕事の形を超えた、別次元の世界に遊ぶことができる。
(例えば、ただ走っているだけのランナーがその苦しみを突き抜ければ、身体がひとりでに動いて天空を駆けめぐるような感覚になるがごとし。) 

そのように天に与えられた超越的な境地を味わい尽くせばよいのであって、
やれ金メダルだの新記録だのといった俗な名誉を得ようなどとはするな。

ひたすら虚心となって、想像もしなかった素晴らしい世界を感得せよ。

無双の境地に到達した至人(しじん)は、己(おの)が心を鏡の様に働かせるものだ。
去るものをことさら送りだそうとはぜず、来るものを特別歓迎しようともしない。
ただ自然な成り行きに任せるのみで、別れるのがつらいとか、会えるのが待ち遠しい、といった我執を身の内に蓄えたりしないのである。

それゆえ、様々な事物と交渉する過程で、我が身を傷(そこな)うということがない。

【お話】
「俺が俺が」「私は私は」と、自分の事ばかりにこだわる気持ちを棄(す)てよ。
自分の欲求を満たそうとすればキリがないし、名誉欲を追求して些細(ささい)なことを自慢したり、他人を貶(おとし)めたりするのはいかにも見苦しい。
嫌なことがあれば自分を可哀(かわい)そうがり被害者ぶり、他人に責任転嫁(てんか)するのは本当に無様(ぶざま)だ。
努力する最終目標が何らかの名誉や栄冠を勝ち取るため、というのでは、真の歓(よろこ)びは得られない。
出会いもあれば別れもある。
誰かに執着しすぎてストーカーとなり命まで奪う愚かしさと、別離の悲しみや逢瀬(おうせ)の期待に身悶(みもだ)えする我執の深さと、どれほどの違いがあるか、どちらも業(ごう)の深さが罪深さとも重なってくるようで、大差ないのではないか…

そんなメッセージが聞こえてくるような章段です。

どれも人間的心性の表れともいえますし、乗り越えるべき課題とも思えます。

昔なら反発心も起きたと思います(ので、生徒の皆さんもそうかもしれませんが)、今は案外普通に読めるのは年のせいかもしれません。

ただ、生死をかけるような究極の場面では、このような「何事にもとらわれない」境地に近づくことが大事として、古今東西多くの達人たちが異口同音に唱えてきたという事実も、記憶の片隅にはおいておきましょう。

よく引き合いに出しますが、無敗の剣豪宮本武蔵も白楽天の次の詩句を座右(ざゆう)の銘(めい)にしていました。

寒流月を帯びて澄めること鏡の如し
夕吹(せきすい)霜に和して利(と)きこと刀に似たり

「寒気に満ちた水の流れに月が映り、澄んでいるさまは鏡のようだ
 冴(さ)えた夕風が霜の冷気を帯びて、身を刺す鋭さは抜身(ぬきみ)の刀のようだ」

交通事故にあう瞬間、ハンドルをぎゅっと握りしめるのではなく、すっと力を抜くことができるかどうかが生死を分ける、という話も聞いたことがあります。
カーッとなってしまうはずの時こそ、氷のイメージで脳や意識を瞬時に冷却させること。

わかっていても実践は困難でしょうが、「それが極意(ごくい)」だとは知っておきましょう。