物化を命として其の宗を守るなり

(今週の素読 荘子 徳充符篇第五―16)

魯に兀者(ごっしゃ)の王駘(おうたい)あり。
これに従いて遊ぶ者、仲(ちゅう)尼(じ)と相い若(し)く。

常季、仲尼に問いて曰く、
王駘は兀者(ごっしゃ)なるに、これに従いて遊ぶ者は、夫子と魯を中分し、
立ちて教えず、坐して議せざるに、
虚にして往き、実にして帰る。
固(まこと)に不言の教え有りて、無形にして心に成る者か。是れ何人(なんぴと)ぞやと。

仲尼曰く、
夫子は聖人なり。
死生は亦(ま)た大なり。
而(しか)もこれと与(とも)に変ずるを得ず。
天地の覆墜(ふくつい)すと雖(いえど)も、亦た将(かなら)ずこれと与(とも)に遺(お)ちず。
無仮(むか)を審(つまび)らかにして、物と遷(うつ)らず、
物化を命として其の宗(そう)を守るなりと。

【大体の意味内容】
魯の国に、刑罰によって足の筋を断ち切られた足(あし)萎(な)えの、王駘(おうたい)という者がいた。
なぜか人望があって、彼に従って学究の世界に遊ぶ者の数が、孔子の門下と同じくらいであった。

常季が孔子に尋ねた、
「王駘は足切りの刑にあった身体障碍者ですが、彼について学ぶ者の数は先生の門下生とで魯国を二分します。
王駘は立っていても何か教えるわけではなく、
坐っていても別に議論をするというわけではないそうです。
なのに頭の中が空っぽのままで学びに行ったものが、とても充実したものを得て帰るとか。
きっと不言実行の教えを持っていて、形式にとらわれることなくおのずと心に残るものを成す者なのでしょう。
いったいどのような人物なのでしょうか」と。

孔子は答えて、
「あの方は聖人だ。
生と死は存在する者にとっての重大事であるが、あの方はそれと一緒に変化するということがない。
たとえ天が覆(くつがえ)り地が墜(お)ち込んでも、
あの方はそれと一緒に落ちていくということがない。
仮初(かりそ)めのものではない真実を明らかにして、
物事の表面的な現象に動揺させられることがない。
事物の変化を運命として受け入れ、
そうした現象の背後にある宇宙の根本道理を守っているのだ」と言った。

【お話】
「遊」という語が二度出ていましたが、明らかに「学問する」「学修する」意味で使われています。
日本語でも古くは、「遊ぶ」と言えば音楽を演奏したり舞を舞ったりすることを指しており、
要するに神様と交流することを表していました。

「遊ぶ」は現在は「好きなことをして楽しむ」という意味で使っていますが、確かにこれが根本の意味で、
学問とは本来好きなことをトコトン追究したり、
あこがれの対象を真似したり、
わからないことを問うていったり、
体得したことを表現したり、
そうやって何か素晴らしいものと交わる実感に浸ることなのでしょう。

ラグビーワールドカップが盛り上がっています。
私も詳しくは知らないにわかファンのひとりには過ぎませんが、
試合以外のいろんな番組で、日本だけでなく外国チームの選手たちを詳しく紹介したり、インタビューしたりするものを見ていると、何かうたれるものを感ぜずにはいられません。

試合のシーンだけ見ているとみんな野獣のように見えてしまいますが、
素顔の彼らは一様に素朴で、シャイ(恥ずかしがり屋)で、紳士で、哲学者です。

驚きました。

いわゆる「スーパースター」らしくないのです。
この素朴さは何だろうと思ってしまいました。

何かで読んだのですが、彼らの収入は、野球やサッカーのスター選手たちと比べたら十分の一程度だそうです。

なるほど。

死人が出てもおかしくない烈(はげ)しい試合をしても金になるわけではない。

それでも命がけでプレーするし、そのためにすべてを犠牲にするような激しいトレーニングを積んで勝つための準備をする。

彼らはとにかくラグビーが好きだし、
生命を完全燃焼させられる神聖な遊びであり祝祭であるのでしょう。

試合中に危険行為などを巡って乱闘を起こすこともありますが、
試合後の「ノーサイド(敵味方解消)」で両チーム入り混じりあの鋼(はがね)のように鍛え上げられた肉体同士が讃(たた)えあう光景は、理屈抜きに泣けてきます。
まさに英雄神たちの饗宴です。

国際大会のような大きなイベントやメディアの活躍には、さまざまな利権が生じ金儲けに血眼(ちまなこ)の者たちが群がりますが、
今までラグビーに対して無知だった目を開かせてくれた点は、感謝です。