流水に鑑(かがみ)すること莫(な)くして、止水に鑑(かがみ)す

(授業前の素読 荘子16 徳充符篇第五)

常季曰く、何の謂いぞやと。
仲尼曰く、其の異(い)なる者より視(み)れば、肝胆も楚越なり。
其の同じき者より視れば、万物も皆一なり。
夫れ然(か)くの若(ごと)き者は、心を徳の和に遊ばしめ、
物に其の一なる所を視て、其の喪(うしな)う所を視ず、
其の足を喪うを視ること、猶お土を遺(おと)すがごときなりと。
常季曰く、彼は己(おのれ)を為(おさ)むるに、其の知を以て其の心を得、其の心を以て其の常心を得たり。
物何(なん)為(す)れぞこれに最(あつ)まるや。
仲尼曰く、人は流水に鑑(かがみ)すること莫(な)くして、止水に鑑(かがみ)す。
唯だ止にして能く衆止を止(とど)む。

【大体の意味内容】
常季はいう、
「その、『事物の変化を運命とし、背後にある宇宙の根本道理を守る』とはどういうことですか。」

孔子は答えた、
「ものごとはそれぞれ違う、という点から見ると、肝臓と胆嚢(たんのう)との隔たりでさえ、楚と越との間ほどひらくことになる。
しかし、物ごとの共通した点から見ると、万物は一つである。
王駘のような人は、心を徳の調和した境地に遊ばせ、万物の一である本質を見て、表面的な喪失に目を奪われたりはしない。
自分の足を喪ったことも、泥が落ちた、ぐらいに思っているのだ。」

常季はまた言う、
「あの人は自分の修養にあたって、知性によって心をコントロールし、
その心によって、何事にも動揺しない平常心を得ました。
(ただ冷静であるというだけで)世の中の人や物がその周囲に集まってくるのはどうしてなのでしょう。」

孔子は答えた、
「人は流れている水面を鏡として自分の姿を映してみることはせず、静止した水面を鏡とする。
冷静に静止しているからこそ、人々の本質を映し出す鑑(かがみ)として、大衆を自分の前にとどめてしまうのだ。」

【お話】
前回の「足切りの刑」を受けた聖人、王駘(おうたい)の話の続きです。
常季という人は企業の経営者のような人かもしれません。
王駘という、不遇(ふぐう)の身でありながら高い知性を持った人物に興味を持ち、その指導者としての「成功」に何か政治力や経営力のようなノウハウを隠し持っているのではないかと疑って、
関心はそこにあるようです。

それに対して孔子は、王駘自身はべつに大衆に支持されることを目的として何らかの手腕をふるっているのではなく、
純粋に宇宙秩序との調和を図る生き方に徹し、
結果として人々が彼の薫陶(くんとう)を受けようと集まってきているだけなのだと説くわけです。

「人は流水(りゅうすい)に鑑(かがみ)すること莫(な)くして、止水(しすい)に鑑(かがみ)す」
とは蓋(けだ)し名言です。

波立っている水面では何も映りませんが、静止した水面にこそ物は映る。

実物よりも、鏡に映ったモノのほうにこそ、何か本質までが反映されているのではないか、
人々はなぜかそう直観してしまうのです。

『老子』の時にも「葉っぱにおかれた一(ひと)滴(しずく)の露(つゆ)に、天の全体が映る」という話を読みました。

剣豪宮本武蔵の書「戦氣」にも、その添え書きとして
「寒流(かんりゅう)月(つき)帯(お)びて澄(す)めること鏡(かがみ)の如(ごと)し」とあるのを見てきました。
命をかける緊迫の場面でこそ、鏡の様な「止水」の境地に在ることが大事。

ラグビーのワールドカップが大変な盛り上がりようで、異様な熱狂の渦を起こしていますが、
その中でほとんど笑わずに、けれどタフなプレーに徹する選手たちの存在に注目が集まっています。
日本人だけでなく、外国人選手にもそんな人が目立ちます。

あの激しいプレーで闘志をむき出しにしているようで、
実はそんな自分を鏡のような冷徹な知性で俯瞰(ふかん)しコントロールしているのでしょう。

その冷徹さで、一(ひと)試合ごとに相手の力を吸収し、
自分たちを増強させているありさまに感嘆します。

心気(しんき)を乱さず禅(ぜん)の境地で臨(のぞ)むことが、
大いなる世界とつながりそのはたらきを得ることになると、
彼らはどこかで知っているのでしょう。

台風の被災者たちにまず思いを寄せる「笑わぬ壮士(おとこ)たち」の顔が、
本当に侍(さむらい)のようにも哲学者のようにも見えました。