渾沌七竅に死す

(授業前の素読 荘子三十一 応帝王篇第七)
南海の帝を儵(しゅく)と為し、
北海の帝を忽(こつ)と為し、
中央の帝を渾沌(こんとん)と為す。

儵と忽と、時に相い与(とも)に渾沌の地に遇(あ)う。
渾沌これを待つこと甚だ善し。

儵と忽と、渾沌の徳に報いんことを謀(はか)りて曰く、

人みな七竅(きょう)ありて、以て視聴食息す。
此れ独(ひと)り有ることなし。
嘗(ここ)試(ろみ)にこれを鑿(うが)たんと。

日に一竅を鑿てるに、七日にして渾沌死せり。

【大体(だいたい)の意味(いみ)内容(ないよう)】
南海の帝を儵(しゅく)といい、北海の帝を忽(こつ)といい、、中央の帝を渾沌(こんとん)といった。
儵と忽とはときどき渾沌の土地で面会した。渾沌は彼らを歓待し、手厚くもてなした。

儵と忽とは、こうした渾沌の仁徳に報いようと相談した。
「人間は皆、目、耳、鼻、口の合計七つの穴を持っている。それによって、見たり聞いたり、食べ物の香りを楽しんだり息をしたりする


渾沌ひとりだけ、こうした穴を持っていないのは気の毒ではないか。
試しにこれらの穴をあけてあげれば、彼も楽しく生きていけるのではないか。」

そこで一日に一つずつ穴をあけていったが、七日目で穴がすべて完成すると、渾沌は死んでしまった。

【お話】
「荘子」の寓話の中でも最も有名な「渾沌七竅(しちきょう)に死す」の部分です。

「儵(しゅく)」は稲妻のような素早く走る光を表します。
「忽(こつ)」はぼんやりとしたものを表します。
 その二人が一体となったところが「渾沌(こんとん)〔カオス〕」、つまりぐちゃぐちゃとして何がどうなっているのかさっぱりわからない自然状態だというわけです。

その渾沌が目鼻、口の様な秩序だった体系を持つと、「渾沌」としては死んでしまう。
渾沌(カオス)から宇宙(コスモス)へと変貌し、様々な秩序だったものが生まれるのでしょうが、
しかし「渾沌」本来の「徳」からは遠ざかってゆくことを、このくだりは語っているのでしょう。

日本人最初のノーベル賞(物理学賞)受賞者の湯川秀樹博士は、素粒子について考えていたときに、夢でこの「渾沌七竅に死す」の話を思い出し、インスピレーションを得たそうです。

幼いころにお爺さんに素読をさせられていた経験を生かし、中学時代に自分で読んだ『荘子』の話が、新しい理論発見の手がかりになったと。

博士の頭の中で、原子の核である陽子や中性子のもととなる素粒子が「儵」や「忽」で、それらを結びつける媒体としての「渾沌」が、

きっとあるはずと考えて「中間子(当時は「湯川粒子」と呼ばれた)」の存在を予言し、発見したそうです。

老子や荘子にしてみれば、宇宙万物の根源でありその遊働原理として「道」とか「渾沌」とか言い表している哲学なのですが、
現代科学の様に明確な定義や論理や数式で表せるものではないので、様々な解釈の仕方が可能になりますし、それでかえって多方面に応

用の効くようなインスピレーションをもたらしたりもするのでしょう。

もちろん、素読をしていれば、必ず湯川博士の場合のような奇跡が起きるとは限りません。

ですが、脳科学者の川島隆太氏は「音読ほど、脳の広範囲が活発に働く活動を私は見たことがない」といいます。
脳のどのような働きがどのように活性化するのか、その全貌まではわからないようですが、少なくとも大きな可能性を秘めた営みであるのは間違いありません。
特に、「意味の分かりにくいものを音読したときのほうが、より一層活性化する」のだとか。脳のほうで勝手に、「意味をわかろう」という知的好奇心が作動し出すのですね。

このプリントを毎週作るのは結構大変ですが、これからも張り切って作り続けます!
役に立つのか立たないのかを気にせず、難しくて意味不明な「渾沌」状態のままで、何かを感じてもらえれば、
その方がより純粋で深い「徳」に浸っていることになると信じて…