己に克ちて礼を復むを仁と為す

論語25 顔淵第十二 一
子曰く、己に克ちて礼を復むを仁と為す。
一日克己復礼せば、天下仁に帰せん。
仁を為すは己に由る。人に由らんや。
礼に非ざれば視る事勿れ。
礼に非ざれば聴く事勿れ。
礼に非ざれば言う事勿れ。
礼に非ざれば動く事勿れ。

【大体の意味内容】
先生はおっしゃった。
「ちっぽけな自己の殻を打ちこわし、真心の働きという「礼」にもどること。それが、
「仁」すなわち命の琴線が奏でる癒しの旋律を、広大無辺に響かせることになるのだ。
あなた一人でも一日克己復礼することで「仁」をなせば、天下つまり宇宙そのものが「仁」に癒される。
そうした「仁」を成してゆくために「自己の殻」を壊すのも、やはり「己」という内側からの力に由らなければならない。
誰か他人に、「自己の殻」を破ってもらえるわけではないし、そのような甘えた期待は捨てるべきだ。
「礼」とは、知られるのが恥ずかしくなるほど無邪気で素朴な自分の本音本心であり、本源的生命運動である。
それを見えるように整えていく努力が、広い意味での「礼儀」となる。
カッコつけて型を崩した自分の「失礼」な姿などに見惚れてはならない。
自分の本心を偽る「非礼」な声を聴く必要はない。
自分の品位を貶める「無礼」なことばを他人に言ってはならない。
なんとしてもせずにはいられないという「原動力」が認められない「虚礼」の事業に、命がけの行動を起こしてはならない。」

 【お話】
「己」というのは、かたくなに外からの刺激を拒否しようとして殻を作ることもあれば、その殻を破って大きく成長しようという内発的な力を発揮することもあるものです。蛇が脱皮(だっぴ)をくり返しながら大きく生長してゆくように、人間も人格を陶冶(とうや)する過程においては両方とも必要なのでしょう。自己の殻を打ち破って、はつらつと、命が躍動したいように伸びてゆく軌道が、本来の「礼」です。そうした生命運動=礼に回帰することが、仁徳であるというのです。