天地間の事物を規則の内に籠絡すれども、自から活動を逞うし

【授業前の素読】〔福沢諭吉『文明論の概略』第2章より(一部改変)〕
天地間の事物を規則の内に籠絡すれども、その内にありて自から活動を逞うし、人の気風快発にして旧慣に惑溺せず、身躬(みず)からその身を支配して他の恩威(おんい)に依頼せず、躬(みず)から徳を脩(おさ)め躬(みず)から智を研(みが)き、古(いにしえ)を慕(した)わず今を足れりとせず、進みて退かず達して止まらず、以(もっ)て未来の大成を謀(はか)るものの如(ごと)し。これを文明という。

【大体の意味内容】
天地の間に展開する自然界の様々な法則を、人間の都合のよいように利用して、「文明人」は神のように偉そうにふるまうようになった。しかし、我々は座して世界に君臨などするのではなく、今こそそうした自然のなかに在って、自分の活動を強く盛んにすべきである。人間としての気風を快活で活発に働かせ、旧い慣習のぬるま湯に浸り溺れることなく、躬からの労力を出し惜しみせずに自分の心身を支配コントロールして、他人からの恩恵や権威に頼ってそれに自分の人生を依存するような甘えや怠慢に陥るべきではない。躬から仁徳を深める修行をし、躬から智慧を研ぎすましてゆくのである。昔の様々な時代に素晴らしいこと、学ぶべきことも多いが、それを恋い慕って服従するのではなく、かといって現在の進んだ「技術文明」を以て満足してもいけない。常に前進を続けて退くことなく、何かを達成してもそこに止まることはせず、そうして百年後の未来に思いを致し、事が大成されるよう深謀遠慮をめぐらし行くようなこと。それが正真正銘の文明なのである。
【お話】
名曲「花は咲く」のなかに、「いつか生まれる君に、私は何を残しただろう」という一節があります。これはつまり、志半ばに死んでしまった人が、突然命を奪われたことを恨んだり嘆いたりするのではなく、それよりも、まだこの世に生を享けていないが未来の「いつか生まれる君」に、自分はどんな本質的財産の残すことができたかと、思いやる気持ちがうたわれています。このような凄味(すごみ)さえ感じさせる仁徳の表現に、心底戦慄(せんりつ)せざるを得ません。