(授業前の素読 荘子十八 徳充符篇第五)
夫れ始めを保(まも)るの徴(しるし)は不懼(ふく)の実(じつ)なり。
勇士一人、雄(いさ)みて九軍に入る。
将(まさ)に名を求めんとして能く自ら要(もと)むる者にして、而も猶お是(か)くの若し。
而るを況(いわん)や天地を官し万物を府(おさ)め、
直ちに六(ろく)骸(がい)を寓とし耳目を象とし、
知の知る所を一にして心未だ嘗(かつ)て死せざる者をや。
彼且(は)た日を択(えら)びて登(とう)仮(か)し、
人則ち是れに従わん。
彼且(は)た何ぞ肯(あ)えて物を以て事と為さんやと。
【大体の意味内容】
そもそも物ごとの始原を心の土台に保っていることの表徴(あらわれ)は、
どんなことに対してもびくびくと懼(おそ)れおののかないという実質のことである。
勇敢な戦士はたとえ一人であっても、いさましく敵の大軍に突入する。
名誉を欲しがる程度の者であっても、徹底してそれに執着するならば、
そのように死の恐怖に打ち勝つこともある。
ましてや、天地の摂理に則(のっと)り、万物をすでに我が財産とわきまえるならば、
今灯(とも)っている一瞬の命が尽きることや何かを喪うことを懼(おそ)れたりはしない。
頭・胴体・両手・両足の六(ろく)骸(がい)といった、一個人の身体は、
生命の実質にとっては仮の宿りに過ぎず、
目に映り耳に聞こえるものは一時的な形象(イメージ)と知れば、
この世界に固執すべき理由はなくなる。
知性による様々な認識は所詮統一的なところから派生したものに過ぎないと看破し、
金銭地位確保のために心を殺してしまうということのない者ならば、
いったい何を懼れるということがあろうか。
あの王駘はいずれ自ら日を選んで昇天するであろうが、
多くの人々はそれにもつき従ってゆこうとするであろう。
そのような人物が、どうして自分の成功や人気取りのための策略などめぐらしたりすることがあろうか、
そんな卑俗な欲求とは全く無縁の人なのだ。
【お話】
前々回の「足切りの刑」を受けた聖人、王駘(おうたい)の話の3回目最終回です。
前科者(ぜんかもの)で身体障碍者でもある王駘が、学習塾経営者として大成功を収めていることに、
何か秘密の戦略があると疑っている常季に対し、
そのような勘繰(かんぐ)りは無用だと孔子が諭(さと)しているわけです。
何か罪を着せられてその刑罰で身体欠損者となり、
おそらくは地位も名誉も財産もすべてを失った王駘は、
その後は天地万物と一体となり、
既にそのすべてが自分の財産であると感得したのでしょう。
失うものはなく、あらゆるものを豊かに持っているのだから、
ことさら何かを欲しがる必要はない、と。
前に紹介した手塚治虫の漫画『火の鳥 鳳凰編』の我王を彷彿(ほうふつ)させますが、
案外、我王のモデルが王駘なのかもしれませんね。
山の中で狩猟生活をするマタギは、
商売道具である鉄砲と山刀、水筒、火起こし道具以外はほとんど何も持たず、
ほぼ手ぶらに近い状態で何日も山中生活をするそうです。
その何日間分の食料はどうするのかと問えば、
「山自体が食糧の宝庫なのだからなんでわざわざ重たい思いをして食糧を担(かつ)ぐ必要があるのか」
と呆(あき)れられるそうです。
山菜、キノコ、沢の魚、ウサギや蛇(へび)、山鳥などの小動物の肉、
文字通り食い物の山に入るのだから、と。
ではテントは?、寝るのにどうやって天(あま)露(つゆ)や風を防ぐのか?
「大きな笹でもあればそれを組み合わせてすぐに天幕(テント)は結上(ゆいあ)げることができる。
枯れ葉や草で布団にできるしこれが案外温(ぬく)い」。
現代でもこんな生活をできる人々がまだ生きているのです。
知恵や知識、技能があれば、金はなくとも実に豊かな生活ができる。
「天地万物の官府」という、自然との一体化。その極意を、ぜひ多くの人々、我々にも伝授してほしいです。