(老子道徳経 下編徳経41)
反(かえ)る者は道の動なり。
弱き者は道の用なり。
天下の万物は有より生じ、
有は無より生ず。
道は一を生じ、
一は二を生じ、
二は三を生じ、
三は万物を生ず。
万物は陰を負いて陽を抱き、
沖気(ちゅうき)以て和を為す。
【大体の意味内容】
前進するというよりも、反復することが道の「動(ダイナミックス)」である。
剛強であるよりも、柔弱であることが、道の「用」すなわちしなやかで豊かな働きである。
天下の万物は「有」つまり実際に存在する女性的なものから生まれてくる。
しかしその女性的な「有」は、目には見えず、音に聞こえず、味もにおいも感触も得られない、「無」の世界から生じる。
「無」とは単に空虚なのではなく、我々人間の能力ではとらえられないレベルにあって、しかも万有の根本道理という、「道」なのである。
「道」は始原としての「一(いつ)」を生み出し、「一」は「二元」的なものを派生させる。
天地(あめつち)初(はじめて)発(ひらけ)て、その間に「人」的生命遊動体が生成する。
そうして、天・地・人の「三才」が連関協働(きょうどう)して、万物が生み成される。
万物は太陰(たいいん)の神性を背に負い、太陽(たいよう)の神性を胸に抱く。
万物は、大きなものでも小さなものでも、その内奥(ないおう)から湧き出る「沖(ちゅう)気(き)」というものがあって、
陰陽(いんよう)二神(にしん)のエネルギーを調和させる。
【お話】
この素読を始めた最初のころに
「天地(あめつち)は日月(じつげつ)の魂魄(こんぱく)なり。
人(ひと)の魂魄(こんぱく)は日月(じつげつ)二神(にしん)の霊性(れいせい)なり」
という、室町時代の神道家(しんとうか)吉田兼倶(よしだかねとも)の文章をみんなで読んだことがあります。
「天は日神(にっしん)と月神(げっしん)の魂である。
いいかえれば『太陽』と『太陰』のエッセンスだ。
大地はその太陽と太陰が結晶して形を成したものだ。
そして人の魂や肉体は、太陽太陰の調和したものだ」
といった内容でした。
その着想に学生時代、たいそう感動したものでしたが、
吉田兼倶の思想は、この老子の
「万物は陰を負いて陽を抱き、沖気(ちゅうき)以て和を為(な)す」
の影響を受けたものだったのだ、とわかりました。
私たちの心身は、宇宙の二つの極、太陽と太陰がギュッと凝縮してできている。
一人一人の身体が皆、そういう小宇宙なんだよ。
小さな小さな「私」だけれど、巨(おお)きな太(おお)きな「大宇宙」と、直接つながっているんだよ。
胎児(たいじ)と母体が繋(つな)がって交流しているように。
そういわれているような気がします。
始めのほうで「弱き者は道の用なり」とあり、続けて「~より生ず」るという話が連続して語られているとおり、すべては「柔弱で母性的なもの」から、生まれてくるわけです。
いくら力の強いものが多くを支配しようとしても、「母なるもの」が滅んでしまったら自分たちも滅び、宇宙そのものも滅ぶわけです。
宇宙は遠くにあるのではありません。
私たち自身に宇宙はあります。
私たち自身の意識や意思のその奥深いところ、「山奥」とか「海の沖」とかのような、目には見えない深いところから発せられる「沖(ちゅう)気(き)」が、
宇宙の意志であり、私たちのほんとうの本心なのでしょう。
それを感じ取ろうとしてゆきたいと思います。