利を見ては義を思い、危を見ては命を授け、久要に平生の言を忘れざるは、亦以て成人と為すべしと

子路 成人を問う。

子曰く、
臧武仲の知、公綽の不欲、卞荘子の勇、冉求の藝の若くして、之を文るに礼楽を以てせば、亦以て成人と為すべしと。
曰く、
今の成人は、何ぞ必ずしも然らん。
利を見ては義を思い、危を見ては命を授け、久要に平生の言を忘れざるは、亦以て成人と為すべしと。

【大体の意味内容】
やくざ出身の子路が、成人、すなわち完璧な人間とはどんなものか尋ねた。

先生はおっしゃった。
「臧武仲(ぞうぶちゅう)のような、ちびだが非常に智慧があり、公綽(こうしゃく)のように無欲で、卞荘子(べんそうし)の勇気と冉求(ぜんきゅう)の藝(才能)を兼ね備え、
これらを発揮する際も礼儀正しくふるまい、音楽の様に美しく調和させるならば、成人と呼んでいいだろう」

また重ねてこう言われた。
「今どきの『成人』は必ずしもそうなってはいない。
だが、自分にとって利益になることを見ても、それが正義であるか深く考え、
大事な人の危険を見ては、己の一命をささげ、
いまだ果たせぬ古い約束を忘れずに、真摯(しんし)に対処しようとする者は、成人と言える。」

【お話】
「二十歳になったら誰でも成人、などというのは、まったくばかげている!」
とその昔、大学時代の恩師に言われたことがあります。

「成人」と言われるのにふさわしいのは、
年齢ではなく、
人としてどれだけ努力精進し、人格的に立派になっているか、
ということによらなければならないと。

いま、ひんぱんに子どもたちが被害にあう事件が報道され、犯人が実の親であるケースも少なくないことに、こちらの中の何かがえぐられるようなきつい気持ちにさせられます。

以前、火葬場で小さな棺桶が、窯の前にちょこんと置かれている風景を目にしてしまったことがありました。
本当に小さな棺桶で、中は赤ん坊なのだろうことが明らかでした。
まだ若いお母さんとお父さんの二人だけが、棺桶を抱きしめ、血を吐くように泣いていました。
本当にきつい場面でした。

これでもしも親が犯人、といった場合はいったいどうなるのか。
これから焼かれる赤ん坊のために泣いてくれる人もいないという場面になるわけで、
想像するだけでも絶望的な恐怖を覚えました。

でもそんな恐ろしい現実がたくさん起きてしまっていることを、
私たちは歯を食いしばって理解しなければなりません。

「成人」つまり「人に成る」ためには、いったいどうすればよいのか。
はっきりした答えはありませんし、テストできることでもありません。

が、先の『論語』本文のような、とても実現できそうもない理想の「全人」を目指す気持ちは、持ち続けたいと思います。