其の高さ山に臨み

(荘子 人間世篇第四―14)
匠(しょう)石(せき)、櫟社(れきしゃ)の樹を見る。
其の大きさ数千牛を蔽(おお)い、これを絜(はか)れば百囲なり。
其の高さ山に臨み、十仞(じゅうじん)にして而(しか)る後に枝あり。
舟に為(つく)るべき者数十なり。

観る者市の如きも、匠顧みず行く。
弟子これを問う、何ぞやと。

曰く、散木なり。
以て舟を為(つく)れば則ち沈み、門戸を為(つく)れば液樠(えきまん)し、柱を為(つく)れば蠧(と)あり。
是れ不材の木なり。用うべき所なし。
故に能(よ)く是(か)くの若(ごと)くこれ寿なりと。

【大体の意味内容】
大工の棟梁(とうりょう)の石(せき)が、ある土地の神を祀(まつ)った櫟社(れきしゃ)の神木である櫟(くぬぎ)の大木を見た。
その大きさは数千頭の牛を覆い隠すほどで、
幹の太さは百人で抱え込む大きさだ。
その高さは山を見下ろしていて、地上から二十メートルほどの高さのところからはじめて枝が出ている。
しかも舟を作れるほどに大ぶりな枝が数十本も張り出ているのだ。

見物人の多さはまるで市場のようだが、棟梁は見向きもせずに行ってしまった。
弟子は驚いて尋ねた、「あれほど偉大な木をなぜ無視するのですか」と。

棟梁は言った、
「無駄な木だ、
あれで舟を作ればすぐに沈み、門や戸にすれば樹脂(やに)が流れ出し、柱にすると虫がわく。
何かの材料として優れているところがない、何の使い物にもならない木なのだ。
使われずに放っておかれてきたからこそ、あんな大木になるまで長生きできたにすぎない。」

【お話】
この話は続きがあります。長くなるので後半は次回に回します。

私自身、趣味で歴史民俗学をかじったりしている関係で、フィールドワークで全国各地を調査するときや、個人的な外出や塾の仕事で外回りをしている時など、途中で神社仏閣があればたいてい参拝します。
不思議なことに、神社には「神木」と称する、見るからに神々しいオーラを放つ迫力満点の木が立っていることが多いです。

「夫婦○○」「連理の○○」と呼ばれる、二本の木が途中で合体するタイプのものや、
マグマが噴火したような姿・模様で立っているもの、
おびただしい量の筋肉が浮き上がったような木肌のもの、
その中で暮らせそうなほど大きな空洞が出来上がっているもの、
甘い香りや、神聖な香りを放つ木、などなど。

この荘子で語られているような、百人で抱きかかえ、山を見下ろすような巨大な木は、さすがに実在はしていませんが、
圧倒的な存在感を放つ木、
「トトロの森の大きなクスノキ」は、
実は結構いろんなところで出会えます。

神社の類を見かけたら、ちょっと中をのぞいてみましょう。
もしかしたら、とても不思議な木や岩、泉などがいるかもしれません。

木とは、大地の「気」が吹きあがるさまの文様を表しているのだなあと、実感できます。

そんな自然の力を具体化しているモノを、古来日本人は「カミ」と呼んできたのかと思います。
キリスト教とかイスラム教とかのような、唯一絶対神とは違って、
自然の世界の威力を感じさせる様々なモノが、日本人にとっては「カミ」でした。
「八百万(やおよろず)の神々(かみがみ)」という言い方があるように、
カミとはいたるところに遍在(へんざい)しているものだったのです。

「竈(かまど)神(しん)」つまり台所のカミや、
「厠(かわや)神(しん)」つまりトイレのカミまでいるのですよ。

つまり、私たちの素直で正直な感性で、「他とは違う、特別な威力や迫力を感じる」所とかモノとかを、
神として祀り、
そのような場所を「神社」としたわけです。

先に「神として敬うべき存在」があって、その権威に脅迫されて神社を作ったわけではないのです。

このように、素直に「カミ」を感じる感性によって、
日本人は様々なものを生み出して来ました。

感覚を磨きましょう。

触覚、味覚、嗅覚、聴覚、視覚。
感覚が鋭くなることで、生命の元気は回復し、強壮になり、

人生は豊かで、楽しいものになります。

様々なことを楽しめるメンタルが出来上がってゆくのです。