上善は水の如し

(老子道徳経 上編道経8 上善は水の如し)

上善は水の如(ごと)し。

水は善(よ)く万物を利して而(しか)も争わず。衆人の悪(にく)む所に処(お)る。故(ゆえ)に道に幾(ちか)し。
居(きょ)は善(よ)く地をなし、心は善く淵(ふか)め、与(とも)は善く仁(いつくし)み、言(げん)は善く信(しん)をかわし、政(まつりごと)は善く治(おさ)め、事(こと)は善く能(のう)あらしめ、動は善く時(とき)をなす。

夫(そ)れ唯(た)だ争わず、
故(ゆえ)に尤(とが)め無し。

【大体の意味内容】
最上の善とは、水の働きのようなものだ。水は万物の生長を助けて、しかも競い合うということがない。誰もが嫌がる低地にとどまっている。それゆえに、全生命の源である「道」の原理に近い存在といえる。

(こうした原理が働く世界においては、次のようなことがごく平凡な常識となる)。

大地に善悪はない。大地の生命力に畏敬(いけい)の念をもって居住することで、そこは素晴らしい地となるのだ。

心を尽くして関わることで、日常(にちじょう)卑近(ひきん)なすべてのことに、深まりが生じる。

他者に分け与えつつ、ともに生きることで、仁愛の情も自然に育(はぐく)まれる。

命の琴線(きんせん)を鳴らす言葉は、時間・空間、人種や民族などの壁を越えて、人々の魂を交信させる。

神を祀(まつ)るようにして人々に奉仕する政(まつりごと)によって、この世は美しく治まる。

仕事に取り組むことで、人々の能力は開発され、

よどむことなく流動して、充実した時間が刻まれる。

そもそも、ただひたすら、争うということはしない。

であるから、罪科(つみとが)といった概念自体が、存在しないのである。

【お話】
 今年二〇一八年六月二十三日、沖縄県糸満市摩文仁(まぶに)の平和記念公園で開かれた沖縄全戦没者追悼式の場で、まさに神憑(かみがか)りとしか思えないような詩の朗読が行われました。

 浦添市立港川中学校三年相良倫子さんの「生きる」。
六月二四日の各新聞朝刊に全文掲載されているので是非お読みください
(ユーチューブではhttps://www.youtube.com/watch?v=cNVS7ctD1Gs)。

彼女はまだ一四歳、当然、七三年前の沖縄戦をじかに体験してはいません。

だけど、きっとその大地や、その地にいきとし生けるあらゆる生命たちが伝える記憶を、受け継いでいるのでしょう。

「壊されて、奪われた」「無辜(むこ)の命」たちが憑依(ひょうい)し、未来に生を享(う)ける未生(みしょう)の魂たちとも交信する、霊媒(れいばい)の様になっていました。

「戦力という愚かな力を持つことで、得られる平和など、本当は無い」「平和とは、あたり前に生きること。その命を精一杯輝かせて生きること」。

『老子』の右の文章、「上善は水の如し」を、とくに知らないかもしれませんが、「知識」はなくとも、老子と同じ「智慧(ちえ)」を持ったわけです。

この長文の詩の締めくくりは、以下のように謳(うた)いあげられます。

 摩文仁の丘の風に吹かれ、
 私の命が鳴っている。
 過去と現在、未来の共鳴。
 鎮魂歌よ届け。悲しみの過去に。
 命よ響け。生きゆく未来に。
 私は今を、生きていく。