『大平凡主義』という英才教育

 毎年様々な学校の説明会に出席していますが、神奈川県立横浜翠嵐(すいらん)高校の「大平凡主義」という理念は、まことに興味深いものでした。

それを聞くまでの「翠嵐」イメージは、あえて俗な言い方をしますと『ガリ勉学校』の印象でしたが、
この「大平凡主義」が根っこにあるのだとわかると、また違った印象を得られました。

平凡であることを大事にし、謙虚(けんきょ)に努力することを校(こう)是(ぜ)としているのだそうです。

たとえば、大学入試へ向けての学習について、その重視の比率を「7:2:1」としていました。

何の比率でしょう?

私が大学受験予備校に勤めていた時は、この比率は「数学:理科:英語」などで表現されていました。

ところが翠嵐では、「1年生7:2年生2:3年生1」の比で重視するとか。

もちろん、物理的学習量は3年生が最も多くなりますが、
何を、いつまでに、どのように学習するか、真剣に考え、真剣に取り組むことを、高校1年生の時に徹底させる。

要するに先生たちがとことん労力をさいて指導するのが、この高校1年生に対してなのだとか。

生徒たちも、それぞれ何らかの才能や素質は持っているでしょうが、そうしたことをあてにするのではなく、
どこまでも

「自分は凡人」

として、最大限の努力をする。

また生活のリズムを正しくし、清掃などの凡事も徹底する。

そうしたことを大事にする生き方が、「大平凡主義」なのでしょう。

意識しなければ、謙虚(けんきょ)さはなかなか保持できるものではありません。

謙虚(けんきょ)さを保持するためにも、目標は思い切り高くして、簡単には手が届きそうにないものを目指して努力し続ける。

そうした環境を堅固に構築しているのが翠嵐の凄(すご)みなのかと、得心しました。

話は飛びますが、ある心理学者が、小学校を卒業する生徒たちに

「学び」の反対は何だと思うか

と尋ねたエピソードを思い出しました(出典等、失念していますが)。

「遊び」とか「なまけ」とか「考えないこと」とかといった回答が多かった中で、

難関私立中学に合格した生徒が、

「学ぶ」の反対は「教わる」だ

と答えたそうです。

「僕は塾で教わってばかりいたけど、よく考えたら学んでなかった。これからは自分で学ぶようにしたい」と。

私の頭の中で、「大平凡主義」と、この主体的な「学び」の話とが、カチッと結びつきました。

自らの意思で謙虚(けんきょ)に学び、努力し続けていける力こそが、

ほんとうの「英才」なのではなかったか、と。