『七つまでは神のうち』-神性児童観を思い出そう!

(校舎だより「FlyingSeeds」3月号より)
児童虐待のいたましい事件が後を絶ちません。
これは、特殊な犯罪事例だけ見ても、根本問題に正対できないと思います。

「七つまでは神のうち」とかつて言われていました。
例えば日本各地の伝統的祭礼は、稚児(ちご)が神霊に交わる依代(よりしろ)として信仰されます。
こうした稚児(ちご)・童子(どうじ)の神聖存在感覚を我々はいつどこで失ってしまったのか、よく考えなおしてみるべきではないか。

社会学者見田(みた)宗(むね)介(すけ)は、
「アメリカ原住民のある部族の長老は、
白人の征服者たちが、部族の財産を奪っていき、妻子や友人を殺したことさえも許そう、
しかし彼らが、桃の木の林を切り倒したことだけは絶対に許せない
と言ったことがあります。
これは、自分たちがいつかはそこに帰ってゆく世界のたたずまい=風景を解体することで、
白人は原住民の生を奪っただけでなく、
死をも奪ったということ、
これによってまたその生を、根本から虚(むな)しいものに変えてしまったということであると思います」
と述べていました。

征服者によらずとも、大人たちが実は子どもたちの風景を解体・破壊していることの恐ろしさを思うべきです。
ここから存在の尊厳感覚が麻痺(まひ)したものが出現し、
まるでおもちゃを玩(もてあそ)ぶように小さな命を断つ。

殺された子どもたちこそ、生を奪われたのみならず、彼ら本来の死をも奪われたのです。

さらに言うと、我々も虐待者たちを構成する一員に過ぎないという恐るべき事実を、
私たちは歯を食いしばって認識すべきではないか、と思うのです。

子どもを愛しているといいつつ、それはお気に入りの「モノ」を大事にする、
自分の思いどおりにならないと悩み苦しむ、
といった類(たぐい)のものではないか。

つまり子供は自分の所有物という感覚があるのではないか。

それは根本において、虐待者と大差ないのではないでしょうか。

丸木夫妻の『原爆の図』を生徒たちと見ました。
原爆投下後の惨状の中の赤ん坊たちの姿が、無垢(むく)無傷で美しいことに目を奪われます。

赤ん坊たちの骸(むくろ)は何も拒まず、受け入れ、やすらいでさえいるかのようです…

誰も恨んだり呪ったりしていません。

悲しむ母親、絶望する人、泣き叫ぶ人、逃げ惑う人、放心する人…
さまざまな情念がむき出し。

そしてすべてを超越した嬰児(えいじ)こそが、阿鼻叫喚(あびきょうかん)の地獄を救う守り本尊であると。

この群像を観ていると、不思議に生きる意欲が湧(わ)いてきてしまいます。

きっと描かれた亡魂(ぼうこん)たちが、観る者に咆哮(ほうこう)しているのでしょう。

「生きろ!」と。