無何有の郷に遊び

(授業前の素読 荘子二十九 応帝王篇第七)
天根、殷(いん)陽(よう)に遊び、蓼(りょう)水(すい)の上(ほとり)に至りて、適々(たまたま)無名人に遭(あ)う。而して焉(こ)れに問いて曰く、天下を為(おさ)むることを請い問わんと。無名人曰く、去れ、汝は鄙人(ひじん)なり。何ぞ問うことの不豫(ふよ)なる。予(わ)れ方(ま)将(さ)に造物者と人と為らんとす。厭(あ)かば則ち又た夫(か)の莽眇(もうびょう)の鳥に乗りて、以て六極の外に出で、而して無何(むか)有(ゆう)の郷に遊び、壙埌(こうろう)の野に処(お)らん。汝又た何の暇(いとま)ありて天下を治むることを以て予(わ)れの心を感(うご)かすを為すやと。又た復(かさ)ねて問う。無名人曰く、汝、心を淡に遊ばしめ、気を漠に合わせ、物の自然に順(したが)いて私(し)を容るることなければ、而(すなわ)ち天下治まらんと。

【大体の意味内容】
天根が殷(いん)陽(よう)の地に遊んで蓼(りょう)水(すい)の川のほとりを屯(たむろ)していたら、たまたま無名人と出会った。そこでこれに問いかけて、「天下を治めるにはどうしたらよいですか」といった。無名人は答えた、「去れ、お前はくだらん奴だ。なんという無粋(ぶすい)な質問を口にするのか。私は造物者と仲間になろうとしている者だ。それに飽きたら、あの草原の如き広やかな巨(おお)鳥(とり)の背に乗って、天と地と、東西南北の六極からも外れた宇宙へと罷り出でるだろう。そうして、何物も存在しないところに遊び、虚空(こくう)にさらされておるだろう。お前は「天の根」でありながら、いったい何の暇(ひま)を弄(もてあそ)ぶようにして『天下を治めよう』などという俗なネタで私の歓心を買おうとしているのだ。」「そういう方だからこそ、あなたならこの世界をどのように安らけく平らけく治められるのかをお聞きしたいのです」。無名人は答えた、「お前は、心を恬淡(てんたん)として欲のない境地に遊ばせ、お前の元気を空漠(くうばく)静寂(せいじゃく)の天気に調和させなさい。万物の自然法則に従って、私欲や私心をさしはさむようなことをしなければ、天下にありとあらゆるものが、その本来あるべき姿に治まるのである。」

【お話】
「天根」つまり天の根っこ、「世界の始まり」が、ヘラヘラと陽気に絡んでくるキャラとなり、「無名人」つまり名という、存在の象徴(しるし)を無くした「終わったもの」が、聖人の境地に達しつつもやや短気なキャラとなって、やりとりする、ちょっとマンガの様な場面です。
この本の著者「荘子」は、よく「老荘思想」と評価されるほど「老子」の考え方に近く、どちらかというと王侯為政者のコンサルタント志望の「孔子」をからかう傾向があります。今の場面でもおそらくは、「無名人」とは老子のことであり、「天根」は孔子なのかもしれません。
そう考えると、一般によく言われるように、荘子は単純に孔子をバカにして、老子に百パーセント敬服している、とばかりは言えないようにも見えます。
ここで天根は、天下を治めようという俗っぽい欲望を持った存在の様でいて、実は「無名人」の真骨頂をうまく引き出す「調整者(ファシリテーター)」の役割も果たしています。「無名人」は常識の域をはるかに超えた自由な精神世界に遊べる悟(ご)達者(だつしゃ)ですが、それをことさらにひけらかそうとするお茶目な性格の持ち主であることも垣間見(かいまみ)せています。どっちもどっち、という、冷めた視線も、荘子は持っているのでしょう。聖俗どちらの生きざまも一長一短あって、0点か百点かといった評価の仕方はできない、荘子自身の生きざまも、他人から見れば大ぼら吹きで誇大妄想家と見られることもあるのを、自覚していたのだろうと思います。存念を熱く語りながらも自らを茶化せるこの余裕が、いいですね。
自分の役割を懸命に演じながらも、そんな自分をどこか離れたところから冷静に観察する、そんなメンタリティーを、「離(り)見(けん)の見(けん)」といいます。授業中に、まるで幽体離脱したみたいにボーっとする人がいますが、それとは違います。今自分の行為行動に集中しつつも、そんな自分を外側から冷静に観察できていて、必要に応じて修正できる、メタ思考能力と、考えてください。