命に従うは、徳の至りなり

(荘子 人間世篇第四―13)

天下に大戒二つあり。
其の一は命なり。
其の一は義なり。

子の親を愛するは命なり、心より解くべからず。
臣の君に事(つか)うるは義なり、適(ゆ)くとして君に非ざることなし。
天地の間に逃るる所なし。
是を大戒と謂う。

自ら其の心に事うる者は、其の奈何(いかん)ともすべからざるを知りて、
之に安んじ命に若(したが)うは、徳の至りなり。

固より已むを得ざる所あり、事の情を行いて其の身を忘る。

何ぞ生を悦びて死を悪(にく)むに至る暇(いとま)あらんや。

【大体の意味内容】
この世界には大きな戒めが二つある。
その一つは運命、すなわち生命運動であり、
もう一つは忠義すなわち心のど真ん中を貫く正義である。

子が親を愛し慕うのは本質的生命運動なのであって、心から切り離そうとすべきではない。
臣下が君主に仕えるうえでの忠義とは、人が社会で生きる上での規範のことである。
君主が先にあって、無理に仕えるのではなく、
人がより善く生きる規範を作り上げた結果、その象徴として君主が存在を認められているに過ぎない。

自然の生命運動と偽らざる正義、
天地の間でこの二つから逃れられるところはない。
これを大戒というのである。

自分の本源的な意志としての心意伝承に従う者は、その働きが個人のちっぽけな自我ではどうにもならないことをわきまえられる。
心意伝承に安らぎ、生命運動に素直に従うことが、最高の徳(ありさま)なのだ。

もとより生きてゆくうえでは、つまり食べてゆくうえでは理想論を却下し、
それぞれの事情で仕事をして、我が身の幸福を忘れがちだ。
生きる悦びを感じたり、いずれ死ぬということを嫌悪したりする暇が、どうしてあるだろうか。
(一見、何も考えずにひたすら食べてゆくことに必死になっていることが、
案外そうした生命運動や正義のありがたさに気づくきっかけになったりもするものだ)。

【お話】
この塾業界で仕事をするようになって初めのころは、何をどうやってもうまくいかず、上司たちからも自分の存在を全否定される日々が続いて本当につらかったことがあります。
生徒たちの前に立って授業するのが恐ろしくて、毎日、一日中心臓が早鐘を打ち続けるほどのプレッシャーに苛まれていました。

そんなある日、寝ている間に心臓が止まってしまったことがありました。

やかましいほどどくどく鳴っていた心臓の鼓動が極端にゆっくりになったかと思うと、

三度なり、

二度なって、

一度、

そして、鳴らなくなりました。

え、止まった? 心臓が止まった?

不思議と平安な気分になりました。
このまま死ぬのかな。そしたら、楽になれるな、もうプレッシャーから解放される。

そんな風に思いました。

横にはまだ赤ん坊の子どもが寝ている。

このまま死んだら、家族は悲しんでくれるだろう。

いや、怒るだろうな。きっとばれるだろう、

「無抵抗死」だったって。

生きようと頑張らなかったって。

それに、

やっぱり死ぬのは嫌だ。

いやだ、嫌だ、いやだ嫌だいやだ!

間に合うか?

だいぶ時間たってないか?

全身の力を自分の真ん中に集める。

ちくしょう、畜生、ちくしょう畜生ちくしょう畜生!

どくん。

鳴った…

どくん、どく、どくん、どく どく どくどく どくどくどく どくどくどくどくどくどくどくどくどく…

そんなことが、ありました。

心臓が休まず、鳴り続けていることのありがたさ、

日が昇り、あくせく働き、
日が沈み、飯を食い、風呂に入り、
ひいひい言いながら明日の授業の準備をする、

 そんな一瞬一瞬でも、有り難い、素晴らしいことなのだと、だんだん分かってきました。

毎日を、実はとても生きづらい思いをしながら過ごしているのは本当は生徒たち自身なのだと、生々しく感じながら、

なるべく子どもたちの気持ちに沿いながら一緒に生きてゆこうと思いなおしたりしました。

 『荘子』のこのくだりは、できれば避けたい自己喪失の生き方も、

逆に日常茶飯の自分本来の生き方が、いかに奇跡であったかを、
改めて実感させてくれているのだと思います。