無窮に遊ぶ者は何をか待たんや

(荘子 逍遥遊篇第一―3)
列子は風に御(ぎょ)して行き、冷然として善し。
旬(じゅん)有(ゆう)五(ご)にして然る後に反(かえ)る。
彼福を致す者に於いて未だ数数(さくさく)然(ぜん)たらず、
此れ行に免ると雖(いえど)も、猶(なお)待つ所の者あるなり。

若(も)し夫れ天地の正に乗じて六気の弁に御し、

以て無窮に遊ぶ者は、
彼れ且(は)た悪(なに)をか待たんや。

故に曰く、至人は己なく、神人は功なく、聖人は名無しと。

【大体の意味内容】
列子という人は、風に吹かれて自由気ままに逍遥(しょうよう)し、その生き様はクールでかっこいい。
風が変わる十五日ごとに帰ってくる。

彼は幸福をもたらすものをがつがつとむさぼり求めるようなことはしない。
このことは、無理な行動を取ろうとする我執からは解放されているといえるが、まだ頼みとするものを残している、
つまり吹く風に頼っているのである。

そもそも天地の真正な働きに乗じて、「陰陽(いんよう)風雨(ふうう)晦(かい)明(めい)」六気の天候変化と融合する。
そうして限界のない、無限無窮の世界に遊ぶ者は、何かに頼るということがあろうか、
いや何も頼まず自由でいるのだ。

よって、
「最高の境地に至る者には利己的な私心がなく、

神人(しんじん)は俗世間で褒(ほ)められるような功績とは無縁で、
聖人には俗人が求めるような名誉がない」
といわれている。

【お話】
「風が変わる十五日」とは、中国の戦国時代(紀元前403年~紀元前221年)に生じた「二十四(にじゅうし)節気(せっき)」の考え方に基づいています。
一年を春夏秋冬の四季に分け、さらに一つの季節を六つに分けて、6×4=24の「季節」に分けました。
これを「二十四節気」といいます。
そうすると「一気」とは365÷24=15,2083(・)で、ほぼ十五日ということになります。

これはちょうど月の満ち欠けにも対応しており、新月から満月に十五日、満月から新月に十五日、というサイクルともリンクしていますね。
月の運航と気候の変化とがこんな風に一致しているわけです。

二十四という数字は、一日の二十四時間とも一致しますが、
こちらは月の満ち欠け三〇日を一つの周期として、それが十二回で一年になるという事実から、
一日の昼を十二時間、夜を十二時間で表現し、合計二十四時間になったとのこと。

私たちの生活のリズムを示す様々な数字は、決して人間が勝手に決め付けた数字ではなく、自然が示してくれたものであるわけです。

こうした自然のリズムに即した生き方が、「天地の正に乗じて六気(自然界の六つの元気)の弁(変遷)に御し(融合し)」たものであり、「無窮(の宇宙)に遊ぶ」ことになるのだと、古人は直感していたのです。

これは風の運びの様な何かを「待つ」ことでもなく、ことさら主体的に「行(ぎょう)」を行使することでもない、

つまり受動的消極的他力本願でもなく、
能動的積極的自力本願でもない、
こうした二項対立以前の未分化な宇宙の摂理そのもの、
「道」そのものだということなのでしょう。

柳(やぎ)生新(ゅうしん)陰流(かげりゅう)兵法(へいほう)の「懸待(けんたい)一如(いちにょ)」という言葉を思いだしました。

「懸(けん)」とは「懸(か)かる」つまり攻撃することで、
「待(たい)」とは静かに待つことです。

身体は「懸」、心は「待」で、敵に「先」つまり先制攻撃させることでかえってこちらが勝つ極意だとか。

これは元メジャーリーガーのイチローのバッティングの極意「手を出すのは最後」ということとも通じるのでしょう。

『荘子』のここの文章のテーマが「懸待一如」だとしたら、
それは「敵に勝つ」とか「ヒットを打つ」とかの目的を持たない、
宇宙との一体を言うものなのだろうと思います。
「至人は己なく、神人は功なく、聖人は名無し」にそれがあらわれているようです。

そのような境地に到達できたとして、「それが一体何になるのか」といってしまえばそれまでですが、

人間存在のありようがどこまで拡大拡張し得(う)るものか、
試してみたり努力してみたり、そのこと自体を楽しんでみれば、
何か新しい知恵や可能性も生じるのではないでしょうか。

役に立つかどうかは別としても、退屈な人生ではなくなるでしょう。