(老子道徳経 下編徳経39)
昔の一(いつ)を得る者、
天は一を得て以て清し。
地は一を得て以て寧(やす)し。
神は一を得て以て霊なり。
谷は一を得て以て盈(み)つ。
万物は一を得て以て生ず。
候王は一を得て以て天下の貞と為る。
其の之を致すは、一なり。
而(しこう)して上徳は徳とせず、是(ここ)を以て徳あり。
下徳は徳を失わざらんとす、是を以て徳なし。
【大体の意味内容】
宇宙の中心にある北極星を「太一(たいいつ)」とよぶが、すべての星がそれを巡って運行するような中心原理を「一(いつ)」という。
天は「一(いつ)」の徳(はたらき)を得て清澄である。
大地は「一(いつ)」を得て安寧である。
神々は「一(いつ)」を得て霊妙なる御神徳を発揮する。
渓谷は「一(いつ)」を得てみずみずしい生気に盈(み)たされる。
万物は「一(いつ)」を得て誕生する。
諸侯や王たちは「一(いつ)」を得ることで、天下の尊崇を集める貞廉潔白の士たりうる。
そうしたもろもろの徳(はたらき)を発動させるのが、「一(いつ)」である。
しかるに最上の徳とは、「一(いつ)」を得て、いわば中心へと排除されることで、すべての中心であるがゆえに絶対の孤独にあるといえる。
そのような「徳(とく)」を甘んじて受け入れることこそが最高の徳なのである。
下徳は、そのような苛烈な「徳」をはき違えて、「地位・名誉・財」といった低次元な欲望を満たすものを「徳」と思い込んでそれを失うまいとする。
そこには「一(いつ)」の「徳(はたらき)」のかけらもない。
【お話】
学生時代に同じ研究室の友人の家の引っ越しを手伝ったことがあります。
その助っ人の中にはやはり同じ研究室の小柄な女学生も一人いたのですが、とてもかいがいしく働く様子に、プロの引っ越し業者の人たちも感心していました。
「この娘(こ)は『仕事した』顔をしないのがいいねえ」
とベテランの職人さんが言っていました。
「『仕事した顔』をしない」。
何気ない一言ですが、私の肝(きも)にしーんとしみ込んで、忘れられない言葉となりました。
何か忙しいときや重労働に当たるときはいつも思い出します。
「俺は今『仕事した』顔してやいないだろうか」と心配になります。
とても無様(ぶざま)で格好(かっこう)悪(わる)いことのように思えてしまうのです。
「上徳は徳とせず、是を以て徳あり」を読んでまた改めて思い直しました。
自分の手柄や功績を決してひけらかさないのと同時に、そもそも自分の働き自体がなかったことのようにしながらも、知らないうちに全体を支えている。
そういう人が、気が付いたら中心で輝いている。
いや、そんな輝きを放ってしまう人こそ、中心であるのでしょう。
本人が好むと好まざるとにかかわらず。