(老子道徳経上編4)
道は沖しきも、これを用うれば或た盈たず。
淵として万物の宗たるに似たり。
其の鋭を挫いて、其の紛を解き、
其の光を和げて、其の塵に同ず。
湛として存する或るに似たり。
吾れ、誰の子なるかを知らず、帝の先に象たり。
【大体の意味内容】
「道」は虚空のようなもので、働き自体は無限のものであって、これを利用しても何かで満たされるということはない。
まるで底なしの淵のようで、万物の根源といえる。
それは、鋭くとがったようなところをくじいて、むしろ鈍いようなものとし、もつれからまったところを解きほぐす。
高貴な輝きをおさえやわらげて、塵芥(ちりあくた)と同様になる。悠久の歳月をかけて湛えられた水のように存在する何かなのであろう。例えば私という存在も、「誰の子」であるかというのは本質的には、わからないものなのだ。しいていえば、この世の造物主の、その先の宇宙根源の姿をかたどったものであろう。
【お話】
日大アメフト部の「危険タックル」問題が沸騰(ふっとう)しています。
「実行犯」の選手と、指示を出した監督コーチの側との見解の相違が問題となっており、刑事事件にまでなりそうな勢いで炎上しています。
この場合、「殺人未遂」の案件にもなりかねないので、実証はほぼ不可能であるから日大側は「けがをさせる」指示であることを否定し、被害者側は納得せず世間も納得せず泥仕合の様相を呈しています。
そんな中で、「実行犯」である学生が、顔も名前もさらけ出して、単独で記者会見に臨んだことが、世の中に清冽(せいれつ)な衝撃となって取り上げられています。我執(がしゅう)を虚(むな)しくして自分自身の何物も守ろうとせず全身全霊で謝罪し、彼が認識する「真相」を赤裸々に告白する捨て身の覚悟を見せられて、日大幹部はもちろん、マスコミはじめ世の中の大人たち、被害者側までもが皆たじろいでしまいました。
彼の姿はまさしく、鋭(えい)を挫(くじ)き紛(ふん)を解(と)き、光(ひかり)を和(やわ)らげ塵(じん)に同(どう)ずるものでした。自ら己(おのれ)を虚(むな)しくして最低最悪のものと断ずることで、だれ一人彼を糾弾(きゅうだん)できない最強最高の存在となってしまったのです。