「今日という一日は、『もっと生きたい』と思いながら死んでいった人たちの明日」
難病から生還した経験もお持ちの方から教わったものですが、ある小説の一節が元になっているとのこと。
ほんとうに考えさせられる言葉です。
教育の現場が最初に子どもたちに提供すべきイメージが、死と誕生だと思います。
古今東西を問わず、人が何か大事なことを他者に伝えようとするとき、死のイメージから語りおこすことが多いからでもありますが、
ほんとうは毎日毎日が「死んだ人々の明日」という、かけがえのない日々の連続だから、なのです。
少なくとも、一年の節目節目で、人々は「死」を悼(いた)み、「誕生」を祝う祭事を行い、心の折り目を正すようにして、生活してきました。
たとえばクリスマスは、もともとその年の収穫を祝う冬至祭りです。
北極に近いところなど、地域によっては昼のない極夜となる冬至(12月24日ころ)は、いわば「太陽の死」に当たる日です。
その様なときでも青々として生命力を感じさせるモミの木を、神木として飾り立て、人々は「太陽の再生」を祈りました。
日本でも同様の冬至祭りは各地で行われています。
12月25日をクリスマス(イエス・キリストの誕生日)というのは、「太陽の再生(誕生)」と重ね合わされた北欧の習俗だったのです。
考えてみれば、イエスが活動したイスラエルは砂漠もあるような灼熱の気候帯ですから、雪の積もったモミの木といった景は、あきらかに別の地域のものでしょう。
ちなみにクリスマス・イヴに来訪するサンタクロースは、「聖(セント)ニコラウス遊び」という習俗が元になっています。さらにそのもとには、嵐の神「ウォーダン」が、冬の嵐の中を大勢の漁師を連れて狩りに出るという伝説があります。
農民たちはこの狩人たちのために、畑に麦の束を刈り残しておく。
するとウォーダンの乗馬が飢えず、代わりに、残った麦に馬の形の穀物霊が宿り、翌年の稔(みのり)につながると考えられました。
サンタクロースのプレゼントとは、翌年の収穫のことだった、つまり豊作の予祝という、ヨーロッパの農耕儀礼だったわけです。
一見、死や絶望をもたらすとしか思えない禍々(まがまが)しいものが、最も豊饒(ほうじょう)な生命力を宿すという逆説は、世界中の神話の根幹をなしています。
志半ばに斃(たお)れた先人たち、厳しい冬の猛威、それらを受けとめながら、
わたしたちは命を日々磨いてゆくべきなのでしょう。