道の道とすべきは

道の道とすべきは、常の道に非ず。
名の名とすべきは、常の名に非ず。
名無きは天地の始め、名有るは万物の母。
故に常に無欲にして以て其の妙を観、常に有欲にして以て其の徼を観る。
此の両者は、同じきに出でて而も名を異にす。
同じきをこれを玄と謂い、玄の又玄は衆妙の門なり。(『老子道徳経』上編1)

【大体の意味内容】
「道」とは「道路」のことではなく、私たちの生命が素直に働く原理のようなものだ。
私たちに与えられた「名」も親の願いが込められた大事なものではあるが、小さな個人からではない、「天命」とでもいうべき「名」を悟らねばならない。

そうした「天命」以前が天地宇宙の始めで、様々な「天命」が世界・万物を生み出してゆく母胎である。

そうして生み出された私たちには、何らかの「天命・使命」、要するに生きてこの世で果たすべき役割が与えられている。

「無欲」のニュートラルな、解放された精神状態においては、「妙」即ち宇宙の精妙な働きを観想する。
「有欲」の、エンジンがかかったような状態では、「徼」即ちこの世のダイナミックなありさまを観察する。

「静的」な「妙」と、「動的」な「徼」の両者は、名は違っているが同じところから出てきている。

そのおおもとを「玄」すなわち赤黒い闇のような、はっきりとは見る事の出来ない根源という。

「玄の又玄」つまり究極の根源世界は、この世に美しさをもたらす数々の妙光が通過してくる門なのである。
(私の「天命」が何であるかを知るのは難しいが、間違ってもよいから知ろうと努力し、小さくともよいから達成しようと勉めるべきである)。

【お話】
ふだん私たちが使っている「道徳」という言葉は、『論語』の孔子と同じころ、今から二千五百年ほど前の、老子の言葉をまとめたこの「道徳経」がもとになっています。

でも、「道徳」といえば私たちは、親切とか正直とか勇気といった、他人からほめられるような行動・態度のことばかりを思い浮かべます。

それももちろん大事ですが、「道徳」という語の典拠となった老子の考え方は、なるべくかみ砕いて説明すると以下のようなものです。

「道」…宇宙やこの世界が出来上がって様々な生命が発生したり滅亡したりを繰り返しながらも、全体としてはバランスを保って生活が営まれ続けてゆくおおもとの原理。

「徳」…そうした生命運動という「道」の原理が具体的な形となったものが「徳」。私たちの身体そのものが「小さな宇宙」とよく言われるが、「徳」はまさしく「小さな宇宙」としての身体。

「道徳」とは宇宙・生命運動の原理に生かされる身体を、損(そこ)ねたり虚飾(きょしょく)で貶(おとし)めたりせず、本来の理にかなうように働かせることです。

身体のあり方は人によって違うでしょう。
いわゆる「病気」等で他人と異なる個性の身体であっても、そうした身体の「道徳」が備わっているのです。

みなそれぞれ「自分の道徳」がどのようなものであるのかよく考え、見極めていきましょう。

ちょうど、大リーグのイチロー選手が今年の試合すべて欠場し、「会長補佐」という役目でチームマリナーズのために奉仕するという衝撃のニュースが入ってきました。

素晴らしいのはイチロー選手のコメントです。

「鍛錬することで、四〇代の自分の体がどうなっていくのか見極めたい」

「野球の研究者であり続けたい。(研究を通して)来年自分がアスリートとして復活することもある」

世間の常識や、既成のスポーツ科学の類とは対立するかもしれませんが、その年齢でなければ発揮できない能力があるはずで、「今の自分の身体」が輝くような鍛錬の仕方、技を追求しようとしているのだと思います。

こうした、現実の身体に即した徹底的な合理主義こそが、「道徳」です。

イチロー選手にしてみれば、「一年間の猶予・修行期間」が有給で与えられたようなもので、内心は願ったりかなったりかもしれません。
様々なチームメイトのケアやサポートを通じても、得られることは多いでしょう。

来年、単にプレーヤーとして復帰するだけでなく、
トップアスリートとして君臨することさえ、予感できます。

楽しみです。