能く純素を体する、これを真人と謂う

授業前の素読(荘子五十 刻意篇第十五)

夫(そ)れ干越の劔(けん)を有(たも)つ者は、柙(はこ)にしてこれを蔵(おさ)め、敢えて軽々しくは用いず。
宝とするの至りなり。

精神は四達並流して極めざる所なく、

上は天に際(いた)り、下は地に蟠(わだかま)る。

万物を化育して象を為すべからず。

其の名を同帝と為す。

純素の道は、唯だ神を是れ守る。
守りて失うことなければ、神と一たり。

一の精は通じて、天倫に合う。

野語にこれあり、曰く、
衆人は利を重んじ、
廉士は名を重んじ、
賢士は志を尚(たっと)び、
聖人は精を貴(たっと)ぶと。

故に素とは、其の与(とも)に雑(まじ)うる所なきを謂うなり。
純とは、其の神(しん)を虧(か)かざるを謂うなり。

能く純素を体(てい)する、

これを真人と謂う。

【大体の意味内容】
呉や越の名剣を持っている者は、それを箱にしまい込んで、軽々しく使用したりはしない、
つまり至上の宝とするのである。

精神、すなわち霊験あらたかな神の精気は四方八方に広がり行き渡り、極め尽くさないところはない。
上は大空のかなたまで、下は大地を覆い尽くす。
万物を変化させ生育させながら、その働きをハッキリとした現象としては示さない。

それを名付けて同帝、つまり造物者と同じ、というのである。

精神が機能するために純粋素朴である方法は、自分の心にある霊妙な働きに素直に従い、守ることである。

守り通して失うことがなければ、自分に本来内在している神気と、自我とが統一される。

統一された精神は肉体を超えた外界にも通じ、
天倫、すなわち自然の摂理とも合致する。

世俗のことわざにも言う、
「大衆は利益を重んじ、清廉の士は名誉を重んじ、賢人は志を貴び、聖人は精を貴ぶ」と。

それゆえに、素朴というのは、不純な動機による雑念がないことをいう。
純粋というのは、自分の精神の霊妙な働きを損なわないことをいうのである。

こうした純粋素朴さを身に付けた人物こそ、真人と呼ばれるのである。

【お話】
「精神」という言葉が中学生の時から不思議でした。
「生心(せいめいとこころ)」とか「性心(せいしつやこころ)」ならばわかりやすいのですが、
「精神」だと、「神」の字が入っているから何か宗教的な意味合いになってしまうのではないか?
教育上問題ないのかなあと、そんな風に思ったりしていました。

今回の文章を読んで、「精神」について少し見えてきた気がしました。とくに宗教的な意味合いではないようです。

最初に「宝剣」と「精神」が対比されていました。

あまりにも素晴らしい剣は、何かを切るという実用目的には使われず、宝として蔵(かく)されますが、

「精神」は空気や水の様にあらゆるものに行きわたり働きかけ、万物を養っており、
しかもそのような偉大な働きをしているとは全く目に見えず気づかれないような存在、というのです。

日本を含むアジア・アフリカ・オセアニア・アメリカ大陸の先住民たちは、山野河海(さんやかかい)・風や石や様々な動植物のすべてに「カミ」や「マナ」、精霊などが宿っているという見方感じ取り方をして、大事に対応してきました。
これを「荘子」では「精神」と呼び、
人間が「神と一」つになれば、そこから生ずる「精」が天地全体を満たす、そのような働きだと言います。
「精神」とはそんな雄大なものなのですね。

このような精神をわが身に受け止めるには、素朴純朴であることが大事。

「朴」とは『老子』で学んだように、何の加工もしていない「朴(あらき)」のことで、

まだ何の色にも染まらず味付けも飾り付けもされていない「素」であること、
そして「神(カミ・マナ・精霊)」の働きを削(そ)ぐことなく従うのが「純」だということらしい。

「純素」であることが「精神」が最もとどこりなく働く「真人」ということ。

かえって難しいかもしれませんが、余計な力は抜いて、わが身を流動させる精神に従って生きることが、一番輝かしいのだと、
そう教えてくれているようです。