(荘子 逍遥遊篇第一―7)
昔者(むかし)、荘周、夢に胡蝶と為る。
栩栩(くく)然(ぜん)として胡蝶なり。
自ら喩(たのし)みて志に適うか、周なることを知らざるなり。
俄然として覚むれば、則ち蘧蘧(きょきょ)然(ぜん)として周なり。
知らず、周の夢に胡蝶と為るか、胡蝶の夢に周と為るか。
周と胡蝶とは、必ず分あらん。
此(こ)れをこれ物化と謂う。
【大体の意味内容】
むかし、荘周(荘子)は自分が蝶になった夢を見た。
くっきりとした体感をもって、蝶であった。
楽しく飛び回り、のびやかな心のままにふるまうことができて、自分が荘周であるとは自覚できないでいた。
そうしているうちにふと目覚めてみれば、はっと我に返り、荘周であった。
しかしよく考えてみるとわからないではないか、荘周が、夢で蝶となったのか、それとも蝶が見ている夢で、今この荘周が存在しているのか。
(現実に生きているのが荘周であるという保証は、どこにもないからだ)。
荘周と胡蝶とは、必ずや区別はあるだろうと、我々は考えてしまう。
しかしどちらが原因でどちらが結果なのかは、誰にも判定できない。
今、荘周を「本当の自分」だと信じ込んでいることは、「物化」すなわち便宜上、荘周の方を「実物」とみなしているにすぎないのである。(怒りに任せて人を殴っておきながら、「これは愛のムチだ」と言い張ることを、暴力の「美化」というのと同じことである。)
【お話】
有名な故事成語「胡蝶の夢」の原典です。「自分」と思っているものは、現実の存在か夢幻(ゆめまぼろし)か、確定はできない。現実と思いこんでもいつかは必ず死んでいなくなるのだから、やはり夢といえばそうともとれるわけです。
ですが荘子の考えは、そうした「永久不変のものはないからすべては夢『のようだ』」と言いたいわけでは、どうもなさそうです。
蝶と自分とをはっきり区別しようとするのは、片方を「物化」しているにすぎないと断ずるのです。本当の本気で、自分自身を「夢に過ぎない」と考えてみている。存在世界の相対性、我々が生きていると信じ込んでいる「この世」とは、ほかにもいくつもある世界〔宇宙〕の内のひとつに過ぎない。別次元の宇宙があるのではないかという発見を吐露しているようです。
現代では「相対性理論」とか「人間原理」とかの着想で想定されている宇宙観、またSFで描かれる多次元的宇宙観を、二千年以上前の荘子が既に着想していることにも驚きますが、
そんな風に驚くこと自体が現代人の思い上がりで、昔のほうがレベルが低いはずと考える非礼に過ぎないわけです。
むしろ現代人のほうが、「これまでの常識がぶっ壊される」ことについて、臆病です。
これまで自分が正しいと信じ込んでいた常識が破壊されたり否定されたりして、それを受け入れてしまうと、「自分がなくなってしまうようで怖い」という決まり文句で及び腰になり、新しい発想や逆転の発想を拒否してしまいがちです。
荘子はむしろ、「胡蝶の夢」で、「自分がなくなってしまう可能性」を、嬉々(きき)として受け入れたわけです。
「自分自身が『存在する』と思いこんだり、『生きている』と信じ込んでいたことが、実は錯覚なのかもしれない、そりゃあ面白い!」と。
いまの自分は蝶によって見られている夢なのかもしれない、
その意味で、蝶によってほんの一時(いっとき)、生かされているだけなのかもしれない。
ならばそのほんの一時(いっとき)を、精一杯夢見られていればいいではないか。
蝶が夢から覚めたとき、「ああ、いい夢を見た」とご機嫌になってもらえるような、素敵な夢であればいいではないか。
きっとそう考えたのだろうな、と勝手に思いました。