義を見てせざるは勇無きなり

子(し)曰(いわ)く、其(そ)の鬼(き)に非(あら)ずして之(これ)を祭(まつ)るは、諂(へつら)うなり。
義(ぎ)を見(み)て為(せ)ざるは勇(ゆう)無(な)きなり。(『論語』為政第二-24)

【大体の意味内容】
先生はおっしゃった。
「鬼神(神霊、祖先霊など)を敬って、その年の収穫物などをお供えして感謝の祭りをおこなうのはよいことだが、
そうではなく、
ひたすら思い上がった金持ちや権力者に、まるで鬼神に対するかのように、贈り物をして祭り上げる者がいる。
彼らは自分では努力をせず、力ある者に、たんに媚び諂(へつら)って、
おこぼれの利益ばかり得ようとする者たちだ。
生きる力の弱い連中である。

「義」とは、現実の利益は期待できないが自分にとって素晴らしい、ありがたいと感じるもので、
「カミ対応」とか「カミってる」などと呼ぶべきようなものである。

そうした「カミ」を感じても、「自分にとって利益にならない、たいして役に立たない」といって
心から感謝したり、それに倣(なら)ったおこないをしようとしないのは、
その人にほんとうの、心身の奥深くから湧き出てくる涌泉(=涌き水)のような生きる力、
すなわち『勇(ゆう)(湧・涌)』がないのである。」

【お話】
『勇』とはほんらいは、
怖さに打ち勝って相手を叩きのめそうとするような暴力的なものではなかったのです。
むしろ、

「ゆるぎないやさしさ」

のことだと言い換えてもよいでしょう。

「義」という文字が、
本来は神の前で舞を舞う意味であることも、
今回調べてみて知りました。

むかし、島根県の美保関という、

都会の喧騒とは無縁な漁港の町に鎮座する美保神社にお参りしたことがありますが、

毎日夕方になるとその神社の巫女さんたちが、ご神前の舞台で、
たくさんの鈴がついた神具をしゃらんしゃらん鳴らしながら静かに美しく舞を舞っていたのを思い出しました。

それは多くのお客さんたちに見てもらうためではなく、

ギャラをもらうためでもなく、

次第に夕闇に染まってあたりが暗くなる中で

ひたすら神様のためにだけ舞う、

その姿の神々しい美しさはまさに衝撃的でした。

二十年三十年たった今もありありと目に浮かびます。
これまでの人生の中ではほんの一瞬の出来事に過ぎません。巫女さんたちの顔も名前も知りません。

が、

それが一生の記憶になり、

ずっと、自分の姿勢を正すモデルになっています。

そんなこともあるのです。

これこそが、ほんとうの出会い。

邂逅(かいこう)というべきものなのでしょう。

自分も、誰かにとってそんな存在でありうるだろうか。

ほど遠いこととはいえ、いつもそんなことを思ってしまいます。