知る者は言わず

(『老子道徳経』下編56)

知る者は言わず、言うものは知らず。
其の穴を塞(ふさ)ぎて、其の門を閉ざし、
其の鋭を挫(くじ)いて、其の紛を解き、
其の光を和らげて、其の塵(じん)に同ず。
是を玄同と謂う。

故(ゆえ)に得て親しむべからず、
得て疎(うと)んずべからず。
得て利すべからず。
得て害すべからず。
得て貴(たっと)くすべからず、
得て賤(いや)しくすべからず。

故に天下の貴(とうと)きものと為(な)る。

【大体の意内容】
真実(ほんとう)の知者は、多くを語らない。
無駄にやたらとしゃべる者は、真実(ほんとう)の知者ではない。
様々な刺激に誘惑されず、動じないところは)目・耳・鼻・口などの感覚器の穴や門を塞(ふさ)いでしまっているようでもある。
他人を批判し、論破しようとする舌鋒(ぜっぽう)の鋭さを挫(くじ)いて、おだやかに紛争を解決する。
人並外れた知恵者であるような光を和らげて、むしろ塵芥(ちりあくた)と同等であるかのようにへりくだっている。
こうした生きざまを「玄同」つまり「目には見えない深みにおける同一」というのである。

したがってこのような人には、うまみのあるエサを与えて引き寄せ、親しむと見せかけて利用しようとすることはできない。
遠ざけて疎遠(そえん)にするにはあまりにも惜しい存在なのでそうもできない。
利益を与えてこちらの都合の良いように支配することもできない。
脅迫し、損害を与えようとしても、何かに加護されていてできない。
貴い身分地位を与えることで、自分に平伏させるという狙いも通用しない。
卑しい身分に突き落としても、人々からの人望篤(あつ)く、いつの間にか多くの人々から頼りにされるので、救済を求めて権力者に泣きついてくるということもない。
(姑息(こそく)な手段を弄(ろう)しての攻撃が一切通じないのである)

このようなものこそが、この世で最も貴(とうと)い存在なのである。

【お話】
有名な四文字熟語「和光同塵(わこうどうじん)(自分の知恵や徳を和らげ、世間の塵(ちり)にまじえて表さないようにすること)の原典に当たる文章です。

ここで語られている「天下の貴(とうと)き者」は、現代感覚で言えばまるで自閉症の人の様に表現されていますね。

しゃべらず、見ず、聞かず、味わわず、議論せず、凡庸(ぼんよう)で冴(さ)えない様子でいて、親しく接することもできない… 

今日的(こんにちてき)な価値観からは真っ向から対立する者の様です。

現代では、「できる人」「成功する人」の条件として「コミュニケーション能力」が盛んに喧伝(けんでん)されています。
それと同じくらいに、様々な分野のコンサルタント(識見付与者)と称する人々がやたらと強調するのが、「雑談力」です。

こうした「多言(たごん)を弄(ろう)する」ことにおいて多くの人脈を作ったり、交渉をまとめたりすることが社会の中で生き残ってゆくための至上(しじょう)命題(めいだい)であるかのごときです。

しかし本当にそうなのでしょうか。

いわゆる口下手(くちべた)な人、寡黙(かもく)に働く人、趣味をたくさん持っているわけでもなく、気軽に親しみやすいというわけでもない人、そんな人々は、いわゆる「負け組」として、社会から、この世から退場すべきなのでしょうか。

むしろ、実はこんな人たちこそ、普通の人が嫌がることでも必要ならば静かに引き受け地道(じみち)に丁寧(ていねい)にこなし、
私たち全体を支えてくれているのではないでしょうか。

こういう人々こそ、現在生きている人たちとのコミュニケーションを、必ずしも円滑(えんかつ)に行えてはいないとしても、

未来の生命たちを思い、
未生(みしょう)のかれらと魂のコミュニケーションをしっかり取り、
絆(きずな)を深めている人々とは、
言えないでしょうか。

なぜか「スナフキン」を想起してしまいました。