知りて知らずとするは上なり

(老子道徳経 下編徳経71)
知りて知らずとするは上なり。
知らずして知るとするは病(へい)なり。
夫(そ)れ唯(た)だ病(へい)を病(へい)とす、是(ここ)を以て病(へい)あらず。

聖人は病(びょう)あらず、
其の病(びょう)を病(びょう)とするを以て、
是を以て病(びょう)あらず。

【大体の意味内容】
物ごとについてよく知ることができたとしても、「まだまだなにも知ってはいない」と自覚することが最上である。
十分知ってもいないのに、知っていると考えることが、気の病(やまい)であり、本人よりも周りが迷惑するものだ。

そもそもそうした半知半解の病(やまい)は誰にでもあるものだから、自分の気の病(やまい)を素直に病(やまい)として認め、慎(つつし)むならば、他人にまで害を及ぼすような深刻な病(やまい)ではなくなる。

更に進めていうなら、聖人にはいわゆる病気もない。
身体に病気があっても、それを自分の生命活動における一つの燃焼の仕方として受け入れるから、
生きざまに支障あるような病気ではなくなるのだ。

【お話】
よく似た発言がいくつかあります。

老子とほぼ同時代とされる孔子(こうし)の言動を記録した『論語』には

「之(これ)を知るをば之を知ると為(な)し、知らざるをば知らずと為す。是(こ)れ知るなり」(為政第二、十七)

とあります。
似ていますが、根本が違います。

孔子は「きちんと知っていることと、まだ知らないことを区別せよ」なのですが、

老子は「いかなる場合でも、まだ知っていないと自覚せよ」ですから、
「知った」という思い込みを全否定しているわけです。

老子孔子から百年ほど後、古代ギリシャの哲学者ソクラテスは「無知の知」を唱えます。
これは老子に近いでしょう。

ソクラテスは「アポロンの託宣(たくせん)」によって「もっとも知恵のある者」とされましたが、ソクラテス自身はこれを、

「自分は何も知らない」ということを自覚しており、その自覚のために他の無自覚な人々に比(くら)べて優(すぐ)れているらしい、

と受けとめたようです。

それからまた長い時を経(へ)て、ある科学者(ニュートンだったかと思いますがうろ覚え)のつぶやきも印象深く想起(そうき)されます。

自分は砂浜で戯(たわむ)れているようなもので、研究を重ねて何か発見すればするほど、その向こう
に未知の大海がますます大きく広がっていくのも見えてしまう。

おおむねこのような趣旨(しゅし)だったかと思います。
これなどは自分の経験を通じて、はからずも老子の考え方をわかりやすく翻訳(ほんやく)してくれているような気がします。

いずれにしても、相当の知的修錬(しゅうれん)・研鑚(けんさん)を積んでいる人ほど、「未知の大海」がよく見えてくるわけです。
マスコミに登場する知識人、コメンテーターたちが、懸命に自分の知識の量をひけらかそうとしているのとは全く対照的です。

「無知の知」を、単なる言葉の知識としてでなく、
自分の全人生が一粒の砂に過ぎずその存在が未知の大海の波に洗われようとしているどうしようもない実感に慄(おのの)いていることが、
「超一流」の証(あかし)でもあるのでしょう。