無を観る者は天地の友なり

(荘子三十六 在宥篇第十一)
大人の教えは、形の影に於ける、声の嚮(ひびき)に於けるが若し。
問あれば而ちこれに応じ、其の懐(おも)う所を尽くして、天下の配となる。

無嚮に処(お)り、無方に行き、汝の適復の撓撓(じょうじょう)を挈(ひっさげ)げて、
以て無端に遊び、無旁に出入して日と与(とも)に始めなし。

頌論(しょうろん)形(けい)躯(く)は大同に合(がっ)し、大同にして己(おのれ)なし。
己なければ悪(いず)くんぞ有を有とするを得ん。

有を観(み)る者は昔の君子、無を観る者は天地の友なり。

【大体の意味内容】
偉大な人物の教育とは、影が形に添うようなものである。響きが声に伴うようなものでもあって、表にはっきりと顕(あらわ)れないが、奥行きや深みを伴って支えてくれる。
問われるとそれに応え、質問したものの思いを察して期待以上の教えを垂れる。

こうして人々が大人(たいじん)の教えを乞うという形で、実質的な天下の支配者たりうるのである。

必要なければ何の響きも立てずにおり、動き出したなら特定の方向に縛られずに遊動する。
ぐしゃぐしゃに交錯する人の海を仕切ろうとせずにその混沌に遊ぶのだ。
それは果てしない世界に於いて、いつ太陽が昇り始めたか知ることができないのと同様である。
(余計な人知を交えずに、人々のエネルギーをあるがままに発揮させる)。

その姿は舞を舞うては大いなるものを寿(ことほ)ぎ、すべてのものに差別区別のない大同の世界に溶け込んでゆく。
小さな個人や自己といった枠を超えて、大同宇宙そのものとなる。
自己というものが無くなれば、どうしてちっぽけな存在に執着する必要などがあろうか。

存在の価値を見いだそうとするのは、昔の君子である。
無の世界に観入する者は、天地の友である。

【お話】
「俺が教えたから○○は成績を上げた」「俺のお陰で△△は合格した」といった具合に、「俺が、私が」と自己主張する教師はほんとうにに見苦しいしくだらないと思います。集合写真を撮れば自分が生徒たちの一番前の真ん中に居座ろうとする輩(やから)。入学式で学生を迎え入れるのではなく、学生を待たせてあとから取り巻きを従えて偉そうに入場する大学の学長。教師ではなくチューター(コーチ)の身で、生徒の東大合格を自分の手がらと吹聴する愚か者。唾棄(だき)すべき「指導者」をたくさん見てきました。もちろん心から尊敬できる立派な人もいますが…
教員養成の大学の学部や、教育現場での研修では、老子や荘子の思想を真っ先に学ぶべきではないか、本気でそう思います。指導者自身は目立とうとするべきではない。影や余韻で十分。力ずくで生徒を型にはめたり自分に従わせたりするのではなく、生徒たちのあふれるエネルギーを存分に発揮させてやることで、それを引き出せれば、教師の仕事は終わり。その結果、自分より優れた人間が育ってゆけば、教育は大成功であるわけです。