風景が変わってしまいました。7月8日に安倍晋三元総理が銃撃殺害されてから。現行犯逮捕された容疑者の家庭が、旧統一教会への「献金」により破綻させられたことへの恨みによると報じられ、テレビ画面の風景が一変しました。関わりのあった安倍氏が狙われるという“飛躍”に違和感ありましたが、その後岸信介元総理を始めとする安倍家三代を中心にカルトと政治の長くて深い繋がりが次々と明るみに出てきて、私たち日本人の生活がずっと、カルトの影響下にあり、あり続けていることが白日の下に曝け出されたわけです。これを精力的に報道するメディアもあれば、頑なにほとんど報じないメディアも実在するという、眼前の現実それ自体にも唖然とし、怖気を震うしかありません。一体、どんな力学が背後で働いているのか。
これほどの事態になっても居直って国民を見下し続ける政権与党の面々、反対の声が高まっても安倍氏「国葬」を断行しようとする勢力、自らの「清廉潔白」を世界に向けて主張する旧統一教会、過熱報道を冷まそうとするコメンテーターたち。被害者である安倍氏の死因究明すらされず(弾丸も「紛失」したままとか)、動機の解明は棚上げ、カルトの被害者救済事業も遅れっぱなし。正気なのですか?当事者たち、行政担当者たち、報道関係者たちは…
いや、この現実に直面しても、不思議と静かな国民たちも、どうなのでしょう?
6月にドキュメンタリー映画『教育と愛国』を観ました。新「教育基本法」に「道徳心」や「愛国心」の向上を教育目標として謳い、正しい挨拶として先言後礼(先に「おはようございます」と言ってから、あとでお辞儀をする)を強制する現場を映し、歴史教科書中の「従軍慰安婦」や「強制連行」といった、日本にマイナスなイメージの記述を「自主的に」訂正申請させる政治圧力の実態などが、冷静に描かれていました。教育への政治介入を高らかに宣言する安倍晋三氏や松井一郎日本維新の会元代表。軍国主義により引き起こされた悲劇への反省から保障された、教育の国家権力からの独立を着実に壊してゆく過程が、丹念に紡がれていました。
こうした狂態が目の前で展開していても、私たち日本人は怒ることを忘れてしまったかのように、唯々諾々と従い続けています。カルトと分かっていても信仰し続ける信者さんたちと、根は一つなのかもしれません。生き残るために働き詰める疲労で、怒るエネルギーを奪われているのを、私自身、感じないではありません。せめて、正気を保ちましょう、私たち!