文質彬彬として然る後に君子なり

子(し)曰(いわ)く、吾(われ)未(いま)だ能(よ)く其(そ)の過(あやま)ちを見(み)て、内(うち)に自(みずか)らを訟(せ)むる者(もの)を見(み)ざるなり。
質(しつ) 文(ぶん)に勝(か)てば、則(すなわ)ち野(や)なり。文(ぶん) 質(しつ)に勝(か)てば、則(すなわ)ち史(し)なり。文(ぶん)質(しつ)彬(ひん)彬(ぴん)として、然(しか)る後(のち)に君子(くんし)なり。

【大体の意味内容】先生(せんせい)はおっしゃった。「自分(じぶん)の過(あやま)ちを見(み)て、心底(しんそこ)自分(じぶん)を責(せ)めるということができる人(ひと)を、私(わたし)はいまだ見(み)たことがない。(たいていの人(ひと)は、自分(じぶん)以外(いがい)の他人(たにん)のせいにしたり、環境(かんきょう)のせいにしたり、運(うん)の良(よ)し悪(わる)しのせいにしたりして、自分(じぶん)の欠点(けってん)を改善(かいぜん)し、成長(せいちょう)するチャンスを失(うしな)っているのだ。)
質実(しつじつ)剛健(ごうけん)にして、文才(ぶんさい)華麗(かれい)さを打(う)ち消(け)してしまうと、野蛮(やばん)な人間(にんげん)になってしまう。文才(ぶんさい)華麗(かれい)をもって、質実(しつじつ)剛健(ごうけん)を否定(ひてい)しては、史書(ししょ)記録係(きろくかかり)のように言葉(ことば)をもてあそぶだけになるだろう。文(ぶん)質(しつ)両面(りょうめん)を分(わ)けてしまわず、一(ひと)つのこととして磨(みが)き上(あ)げてゆくような人(ひと)が、ほんとうの君子(くんし)であり、信頼(しんらい)のできるリーダーなのである。」

【お話】
「文武両道」は、勉強とスポーツと、二つの別々のことがあってその両方を別々にこなすこととして言われています。ですが、ほんとうは、別々のことなのでしょうか。スポーツをこなすにはたんに身体能力を高めるだけでなく、様々な理論や事例や歴史を学び研究する必要がありますし、勉強するにも集中力や体力、食事や休息の取り方など配慮しなければなりません。二つのこととして分けて考える方がおかしいのです。勉強とスポーツとにわざわざ分けて、どちらかのスペシャリストになろうというのは、ロボットになろうとしているに等しいのです。また勉強とスポーツを別々のものとして、両方ともやろうとするのも、より性能の高いロボットになろうとしているようなもので、どちらにしても人間としての成長を放棄しています。ある年齢を越えるとぱったり勉強しなくなったり、運動もしなくなったりするのはもったいない。年を取ればとるほど、文質不可分に熟練と精妙を増すのです。生きている限り、修行努力を続けること、こんな楽しいことはありません。「年をとっても勉強したり、修行したりだなんて御免だ。楽しいわけがない」と決めつける人は、かわいそうな人です。人生百年。そうした年齢に達してなお、いろんな分野で活躍している『人間の達人』が増えてきています。その人たちは本当に、輝いています。