(授業前の素読 言志録2)
人は須(すべか)らく自ら省察すべし。
「天何の故にか我が身を生出し、我れをして、果たして何の用にか供せしむる。
我れ既に天の物なれば、必ず天の役あり。
天の役共ぜずんば、天の咎(とが)必ず至らむ。」
省察して此(ここ)に到れば、則ち我が身の苟(いやし)くも生く可(べ)からざるを知らむ。
【大体の意味内容】
人間は皆、次のことを自ら省みて、考察しなければならない。
「天は、なぜ私をこの世に生み出したのだろうか。
天は、私をして、果たして何の用に、貢献させようとしているのだろうか。
私は既に天の物であるから、必ず天から与えられた役目がある。
その天命を果たすために自分を提供しなければ、必ず天罰を受けるであろう。」
ここまで反省し、考察してくれば、私はただのうのうと生きているだけでは済まされないということがわかる。
【お話】
「自分が生きているのではない、生かされているのだ」と、よく言われたものでした。
でも同時に「自分が、何か大したことができると、思い上がってもいけない。人間ができることなどたかが知れている」という風に、思い知ることも必要だ、と。
ちっぽけな自分が何をしたところで、宇宙のような大きなスケールから見れば塵(ちり)ほどの大きさにもならないですが、
それでも私たち一人一人は、その「宇宙の意思」のようなものともつながっていて、必ず何らかの役割を与えられている、
果たすべき天命を持っている、
そう覚悟すべきだというのです。
前回読んだ、「志を立てる(本心から好きなことをとことん極(きわ)める)」という話と、
「天命を果たす」という話とは、一見矛盾(むじゅん)しているようにも見えます。
「立志」は、個人の意志を重視したもので、
「天命」とは外部から強制された仕事、
のようにも読めるからです。
ですが、突き詰めてみると、「自分の本心」とは、ほんとうに自分が自覚して意識していることそのものなのだろうか。
自分が嫌がっていることですら、実は自分が求めてしまったりはしていないだろうか。
外から強制されて仕方なく行動していることなのに、それがきっかけで今まで気がつかなかった自分の力や可能性が開花し始めることもある。
「生かされている」けれど、これが「本質的な自分の意志」だったのかもしれない、
そんな風に実感することも少なくありません。
みなさんはどうでしょう、似たような経験はありませんか?
大宇宙と小さな個人、かけ離れているようで、実は一つなのかもしれない。
「宇宙の意思」を装った、「我が本心」なのかもしれない。
少なくとも、自分が直面し、経験していることは、すべて意味があるのでしょうね。
それを受け入れるか受け入れないかで、何かを得られたり得られなかったりといった差も生じてしまうでしょう。
自分の生命活動や生命燃焼、そうやってじっくり見つめなおしてみてください。