悪(みにく)きを以て天下を駭(おどろ)かす-哀駘它①

(授業前の素読 荘子十九 徳充符篇第五)

魯の哀公、仲尼に問いて曰く、

衛に悪(みにく)き人あり、哀駘它(あいたいだ)と曰う。

丈夫のこれと処(お)る者は思いて去ること能わず。
婦人のこれを見て、父母に請いて、人の妻と為らんよりは寧ろ夫子の妾(しょう)と為らんと曰う者、十数にして未だ止まず。

常に人に和するのみ。
人の死を済(すく)うなく、人の腹を望(みた)すなし。
知は四域より出ず。

寡人(かじん)召してこれを観るに、果たして悪(みにく)きを以て天下を駭(おどろ)かす。
寡人と処るに、其の人と為りに意あり。期年に至らずして、寡人これを信ず。
寡人国を伝えしに、氾若(はんじゃく)として辞す。
幾何(いくばく)もなくして、寡人を去りて行く。
与(とも)にこの国を楽しむ者なきが若(ごと)し。

これ何人(なんぴと)なる者ぞと。

【大体の意味内容】
魯の哀公が孔子にたずねて言った、
「衛の国に大変な醜男(ぶおとこ)がいて、その名を哀駘它(あいたいだ)といった。

彼と一緒に過ごす男たちは、彼を慕ってそのそばから離れることができなくなる。
女性たちは彼を見ると、父母に願い出て、
『他人の正妻になるよりは、あの人の側女(そばめ)になりたい』という者が何十人も現れて止まらない。

(彼は自分の考えを主張することなく、)いつも他人に同調しているだけである。

(君主のような力をもって)人の死を救うこともなく、
(財産をもって)人々の飢えを満たしてやるというわけでもない。
その知識も国内のことに限られている(のに、多くの人々に慕われるのは、きっと常人とは違ったところが彼にあるからだろう)。

私は召し寄せて彼に会ってみたが、はたしてその醜いこと、世界を驚かせるのに十分なほどであった。

しかし私は彼と一緒にいると、(ひと月もたたないうちに)その人となりに心(こころ)惹(ひ)かれるようになった。
一年もたたないうちに、私はすっかり、彼を信じ切れるようになった。

(国に宰相がいなかったので)、私は哀駘它に国を任せようとしたが、彼は遠くを眺めるような様子で辞退した。
それからいくらもたたないうちに、私のもとから立ち去ってしまった。
(私の喪失感は大きく、)もはやこの国でともに楽しく生きるべき相手がいなくなったように思われた。

これは一体、何ものであろうか。」

【お話】
醜男(ぶおとこ)でアイドルの哀駘它(あいたいだ)シリーズ第1回(たぶん4回シリーズ)。

「世界を驚かせるほどの醜男」なのに、女にモテる、ちょっと、興味を持ってしまうところですよね。
しかも権力や金もなく、特別頭いい、という感じでもない。
なのに男にも女にもモテる。確かに、いったいどんな奴なんだと、気にせずにはいられません。

その解答は次回に回すとして、醜男なのにモテるという人物として、クラウス・キンスキーという俳優(怪優)に、少しだけ触れてみたいと思います。

彼は道徳的には大いに問題があるので、称賛することはできませんが、まるで怪獣の様な醜男であるにもかかわらず、なぜか美女たちに人気があったということもまた事実なのです。
娘で女優のナスターシャ・キンスキーは、映画『テス』や、『哀愁のトロイメライ(クララ・シューマン)』などで大ブレイクした超絶美女ですから、
その母親(つまりクラウスの奥さん)もいかに美女だったかは想像に難くありません。

このクラウス・キンスキーは、哀駘它とはむしろ真逆で、自己主張や欲望の権化のような人物で、人間が持っている業の深さを極限まで表現したような男です。
ケダモノの個性と風貌なのですが、だからこそ異様異風なる者の色気を放つ、というわけらしい。
彼自身による監督・主演の『パガニーニ』では、天才音楽家の破天荒な生涯を描いているようで、実は自分自身への断罪を下しているかのようにも見えました。

『荘子』では、何らかの「取柄(長所)」も何も全くない醜男が、一国の王までも虜(とりこ)にしてしまうという風に描かれています。
どうしても実話とは信じられない、作り話だろうと思ってしまうのですが、
およそ2千年もの長きにわたって読み継がれてきている書物ですから、何か人々にとって説得力があるのでしょう。

自分の思い込みとか常識が粉砕されるかもしれない、それって、ある意味楽しいことであるし、読書の悦(よろこ)びとなるかもしれません。