心に鬼を。鬼が世界を創る

紅白歌合戦で、平井堅の「ノンフィクション」のバックで踊る義足のダンサーに衝撃を受けました。
その凄味(すごみ)ある身体能力にも瞠(どう)目(もく)しましたが、
淡々とした表情ながら、全身から噴(ふ)き出す憤怒(ふんぬ)の様なオーラに圧倒されました。
大前(おおまえ)光市(こういち)さん。初めてその存在を知りました。

たまたまNHKスペシャルでも特集されていて、彼の半生を見ましたが、

番組の最後、紅白で見事に舞い切った後で述べた一言が、最も鮮烈(せんれつ)でした。

「俺は紅組でも白組でもない、『負け組』でありたい。

不幸のどん底から這(は)い上がって栄光をつかみたい、というのではなく、

他人から見て不幸のどん底かもしれないところでのたうち回り続けたいということです。

けれどそこにこそ本当に生きる力や炎があって、人々を震撼(しんかん)させることを、彼はどこかで知ったのでしょう。

それは、永久に「鬼」であり続けたい、ということでもあるのです。

節分で、「福は内、鬼は外」と追いやられる鬼の伝統は、実に古代『延喜式(えんぎしき)』記載の祝詞(のりと)に遡(さかのぼ)れます。
「儺(な)の祭の詞(ことば)」で、次のような句がある。「穢(けがら)はしき疫(えやみ)の鬼の、処処(しょしょ)村(そん)村(そん)に蔵(こも)り隠(かく)らふるをば、千里のほか、四方の堺(ほとり)、東の方(かた)は陸奥(みちのく)、西の方は遠つ値嘉(ちか)、南の方は土佐、北の方は佐渡よりの彼方(おち)の処を、汝等疫(えやみ)の鬼の住処(すみか)と定(さだ)めたまひけ行(おもむけ)たまひて…」。これを十二月の末日に陰陽師(おんみょうじ)が唱えるとあるので、現代の節分(立春前)とは時期がずれていますが、いずれも「新しい時間」が始まるにあたって、鬼をこの世ならぬ闇の世界へ定位させようとするのです。

この心意伝承は歴史の様々な場面で趣向(しゅこう)を変えてリメークされます。

大宰府(だざいふ)に流された菅原(すがわらの)道(みち)真(ざね)の怨霊(おんりょう)。

江戸東京の守護神田(かんだ)明神(みょうじん)は、朝廷に反逆した平将門(たいらのまさかど)の御霊(ごりょう)を祀(まつ)る。

大江山の酒呑(しゅてん)童子(どうじ)。

桃太郎に蹂躙(じゅうりん)された鬼界ヶ島(きかいがしま)。

その他有名無名の、様々な「敗者」たちは、鬼として排除されたり、忌(い)まわしき存在として造形され、この世界の片隅に追いやられ搾取(さくしゅ)される扱いを受けます。

けれど太平洋戦争の敗戦国として日本の全人民が、地球上の「鬼」とされ虐(しいた)げられて、憤懣(ふんまん)に堪(た)えつつ復興(ふっこう)を果たしてゆく過程で、ようやく悟ったのです。

「鬼こそが、その怒りのようなモノこそが、世界を創(つく)るのだ」と。

日本列島では、縄文文化が弥生文明に負け、中国文明に負け、西欧近代文明に負け、相手の粋(すい)を受容しながら豊かな雑種を生み出してきた。

「負け組の鬼」こそが恐るべき大地母神(グレートマザー)なのです。