天下に始め有り

(老子道徳経 下編徳経52)

天下に始め有り、
以て天下の母と為すべし。

既にその母を得て、以て其の子を知る。

小を見るを明と曰い、
柔を守るを強と曰う。

其の光を用いて、其の明に復帰すれば、
身の殃(わざわい)を遺(のこ)す無し。

是を襲常と謂う。

【大体の意味内容】
そもそも「天下」というものが存在するためには、その始まりがある。
それは「天下の母」と言える。

すべての現象は、そうした母性原理の働きによって、いわば、子として発生し、成り立っていることがわかる。

そうして生じてきたもろもろの中で、微(かす)かなもの、目には見えないものを見抜くことを「明(めい)」という。

剛力(ごうりょく)や権力を獲得しようとはせず、
自分の柔弱な在り方を保ち守ることを、本質的な「強」という。

こうした魂の光を働かせることで、ほんとうの「明」に立ちかえってゆくならば、
自分自身がこの世に災いや禍根(かこん)を残すということがなくなる。

これを「襲常(しゅうじょう)」という。
つまり永久不変の「常道」という万物流転(るてん)の根本原則に、襲(よ)り従った生き方なのである。

【お話】
『ドラゴンボール』というマンガ(アニメ)を好んで読んでいましたが、主人公の孫悟空少年が、冒険や強敵との対決を経てどんどん強くなっていき、長じてからは地球一の戦士になり、宇宙人とまで戦うようになって、「スーパーサイヤ人」に変貌し、今度は宇宙一を目指して際限なく強くなっていくストーリーに、途中から危惧(きぐ)の念を抱き始めました。

どこかで、母なる存在や、赤ん坊のような「もっとも無力なもの」こそがすべてを救う偉大な存在であることに気づかなければ、何か深刻な「破綻(はたん)」が訪れるのではないか、とほぼ確信していました。

案の定、作者の鳥山明氏が壊れてしまった、と直感した回がありました。

最悪の戦士「魔人ブウ」が、殺人光線の雨を全世界に降らし、人類を全滅させたシーンです。

あとで「ドラゴンボール」の魔法で復活させる筋になることは予想がつきましたが、作者の精神に破綻が生じたのは間違いないと思いました。

赤ん坊がすべてを救うという展開で印象深いのが1982(昭和57)年のアニメ映画
『伝説巨神イデオン』でした。

無限エネルギー「イデ」をめぐって異星人の軍団と地球人の軍団とが宇宙空間で壮絶な戦いを繰り広げます。

地球人側が操っていた巨大ロボット「イデオン」に潜んでいた「イデ」の力が発動して、両軍とも全滅し、
全員の霊体が宇宙空間をさまよいだす。

この破局の前に、異星人側の王女と、地球人側の青年が恋に落ち、王女は新しい生命を宿していました。

全員死んでしまったのですが、王女の霊体は執念で赤ん坊を生みます。

こうして誕生した赤ん坊の霊体が、救世主「メシア」としてすべての霊体たちを導き、救い、

それぞれが新しい生命の種として全宇宙へ散ってゆくというラストでした。

このシーンが延々20分強、この映画用に作曲された聖譚曲(オラトリオ)「メシア」の
荘厳でスケール雄大な音楽を背景に展開します。

高校生だった私はやたらと感動してしまいました。