天は大公にして無私なる者なり

(中江兆民② 「天の説」より)
天は大公にして無私なる者なり。
人を愛して自らその仁を知らず、
人を威(おど)して自らその厳を知らず。

日月(じつげつ)これに由(よ)りて旋躔(せんてん)し、
風霆(ふうてい)これに由りて発作し、
四時これに由りて推移す。

しかしてその天は初よりそのかくの如きに意あるにあらず、
これ天は無私を以て体となして、
無為を以て用をなす者か。

しかりといへ(え)ども聡明神智天に如(し)く者なし。
故に曰く、天高に居て卑に聴くと。

天の視るは我が民の視る自(よ)りすと。

【大体の意味内容】
天は大いなる「公」であって、「私」の無い存在である。
人に慈愛を垂れても自分では「仁」徳を備えているとは知らないでいる。
人にその威力を及ぼしても、自分ではそのような厳格さを備えているとは気づかない。

日も月も天によってそれぞれの軌道を巡る。
風や雷(いかづち)も天によって発動する。
春夏秋冬の四季も、天によって移ろいゆく。

そもそも、天には初めからそのように万物を運行させようといった意思があるのではない。

天は全く私利私欲が無いという状態を本体とし、
「無為(ぶい)自然(じねん)」の用(はたらき)をなす。

つまりことさら何かを狙って行うことをせず、自ずから成るように任せる。
たとえどんなに頭脳明晰で神のごとき才能に恵まれたとしても、天に匹敵するものはない。

ゆえに『史記』に曰く、天は何よりも高みにありながら、何よりも卑小なるものの声を聞き届ける。
また『書経』に曰く、「天が視(み)る」というのは、「民衆が視(み)る」ことによると。

草莽(そうもう)や名もない民衆のような者たちの在り方や意思にこそ、天の本心が反映されているのだ。

【お話】
幕末の思想家吉田(よしだ)松陰(しょういん)の言葉を思いだしました。

「今の幕府も諸侯も最早(もはや)酔人(すいじん)なれば扶持(ふじ)の術(じゅつ)なし。
草莽崛起(そうもうくっき)の人を望む外(ほか)頼みなし」(安政六年北山安世宛書簡)

現代風に訳せば、「今の政府も野党も大企業も官公庁もみんな酔っ払いばかりで救いようがない。名もない雑草のような人々が立ち上がるのを待ち望むしかない」といったところでしょう。

現代はそんなに悪い時代ではない、と考えている人も、少なくはないようです。
であれば確かに、そうした民衆の声や意思も、「天」にたとえられるように今の時代そのものの真実を表わしているのでしょう。
ですが他面において、最近コンビニの店長さんたちの悲惨な労働実態が報道されるにつけ、
一見便利で快適な私たちの生活が、実際は凄惨(せいさん)なまでの重労働に支えられていることがあらわになってきましたし、
それにまつわる怨嗟(えんさ)の声も次第に大きく高くなってきています。

売り上げが下がると容赦(ようしゃ)なく首が切られるので営業時間の短縮ができず、
小学生のお子さんがインフルエンザになっても治療を受けさせられずにイスを並べて店の奥に寝かせていたとか、
「ほとんど虐待(ぎゃくたい)に等しい」と分かっていても、どうにもできないありさまの人もいました。

こうした声もまた「天の声」です。

「草莽崛起(そうもうくっき)」は、暴力的に行動を起こすことではありません。
どんな悪条件下でも雑草ははびこり風景を作っていくように、
困っている人々の負担を軽減する「思いやり」の草莽(そうもう)をはびこらせること、小さな思いやりに満ちた風景を作ることはできますよね。

コンビニが、別に「年中無休」ではなくなり、「24時間営業」でなくなったって、我々誰一人滅びはしません。
そんな寛容(かんよう)さをみんなで持つこと自体は難しいことではないはずです。

ほかのいろいろな面においても、「お前はくたばってもかまわないから無理をしろ」といったそんな「雰囲気」に従わないことも、ある意味勇気がいるかもしれませんが、必要なことでしょう。
「あなたの責任で」というセリフの多用が気になります。これこそ暴力に見えない暴力です。
「法的責任」の所在を明らかにすべき場面でのみ、使用すればいいことです。
それ以外の場合、
「私の責任で…」と宣言する以外、他人に向けて発するべきではないように思います。