(荘子二十二 大宗師篇第六)
天の為す所を知り、人の為す所を知る者は、至れり。
天の為す所を知る者は、天にして生くるなり。
人の為す所を知る者は、其の知の知る所を以て、以て其の知の知らざる所を養う。
其の天年を終えて、中道に夭せざる者は、これ知の盛んなるなり。
然りと雖も患(うれ)いあり。
夫れ知は待つ所ありて而る後に当たる。其の待つ所の者、特(ひと)り未だ定まらざるなり。
庸詎(いず)くんぞ、吾が謂わゆる天の人に非ず、謂わゆる人の天に非ざるを知らんや。
且(そ)れ真人ありて、而る後に真知あり。
【大体の意味内容】
天の営みを知り、人の営みを知る者は、至高の存在である。
天の営みを知る者は、天の意図によって生かされるものだ。
人の営みを知る者は、その知性が様々なことを認識することによって、まだ知らなかったことを養っていく。
天寿を全うして途中で若死にしない者は、知性の盛んであるものだ。(知的好奇心が旺盛なものは、探究心が強く、老化しにくく、不注
意に致命傷を負ったりはしないからだ)。
そうは言っても、こうした知性の働きにも欠点はある。
知は、天の啓示を待って、天が人に「知ること」を許した時に初めて確かなものになる。
しかしそうした天啓は、いったいどれほど待てば示されるのか、一義的に確定はしないのである。
であるからどうして、私の言葉じりをとらえて、「天は人にあらず」とか「人は天にあらず」とかいった解釈をすることができようか。
(私は便宜上、天と人とを区別して述べてきたが、本当はそんな二元分割などできはしないのである)。
そうであるから、軽率に物事を知ったふりをせずに真理を探究しつつ、いつとも知れない天啓を待てる「真人」こそ、真の知に至ること
ができるのである。
【お話】
宇宙物理学に「人間原理」というとても興味深い理論があります。
宇宙の構造の理由は、人間の存在にあるという考え方です。
「宇宙が人間に適しているのは、そうでなければ人間は宇宙を観測し得ないから」という論理です。
えっ?最初に人間があって、その人間が生きてゆくために宇宙があるっていうこと?
いや、さすがにそこまでは言わないようですが、
「様々な物理定数が今の宇宙を成り立たせるような値なのは、宇宙を観測する存在である人間を生み出すためだ」。とまで言う学者もい
るそうなのです。
十分驚くべき「理論」です。
この「人間原理」をSF小説に仕立てた作品に、グレッグ・ベア『ブラッド・ミュージック』というものがあります。
高校生以上になったら是非読んでみてほしいですが、
我々人間がこの世について、宇宙について様々な理論や法則を発見すると、
それが優れたものならばそのつど宇宙がその理論を正当なものであるという姿を見せてくれる、
という啓示(ミュージック)が、「新しい血(ブラッド)」から与えられるようなラストでした。
結構感動しました。
それで思い出したのが、「アインシュタインの皆既日食」です。
「相対性理論」で、重力が空間そのものをゆがめるということを予言し、世界中の科学者が事実か検証しようとしました。
そうするとまるで宇宙がそれを見せてくれるかのように、実証するチャンスが訪れたのです。
一九一九年五月二十九日、太陽の背後に、明るい「ヒアデス星団」がある時に、皆既日食が起こります。月が太陽の姿をすっぽり隠すのです。
その時、本来なら太陽の円周のすぐそばに見えるはずの星が、太陽から離れた位置に見えたのです!
星から出た光は、空間を必ず直進します。光がカーブすることはありません。
しかし太陽の巨大な重力の影響で、空間そのものがゆがんでいたから、光は直進しているのに空間のゆがみに応じて、光自身もゆがみながら「直進」したわけです。
その証拠が観測され、写真撮影もされました。
このような天啓は、いつ与えられるかはわからないけれど、
報われる保証はなくとも知的好奇心に従って探究をし続けることに意義があるし、
そのように生きる者こそが「真人」であり、
その過程で得た知見こそが「真知」であると、
荘子は指摘していたのでしょう。