(荘子 人間世(じんかんせい)篇第四―10)
内に直き者は天と徒たり。
天と徒たる者は、天子と己と皆天の子とする所なるを知る。
而るに独己(おのれ)の言を以て而(こ)の人のこれを善(よ)みするを期(もと)め、
而(こ)の人のこれを善(よ)みせざるを期(もと)めんや。
然(か)くの若(ごと)き者は、人これを童子と謂う。
是をこれ天と徒たりと謂う。
【大体の意味内容】
内面の世界、思考とか心とか精神とか魂とかのすべての働きに素直なものは、天の仲間である。
天の仲間となった者は、天子である王も、庶民である自分も、
同じ天の子であると知っている。
だから、独自の全力で振り絞った言葉を、王の様な権力者にわざわざほめてもらいたいと期待したりはしない。
逆に批判してほしいと期待することもない。
(相手の地位や身分が高くても同じ天の子として、特別視する必要はないからだ。)
このように素朴で素直なものを、人は「童子」と呼ぶ。
これこそまさに、天の仲間、
「天徒」というのである。
【お話】
『荘子』のこの第四章「人間世篇」は「じんかんせいへん」と読みます。
世界は時間・空間・人間(じんかん)で構成されているという考え方です。
人と人とが関係しあう社会においては地位や身分の階層分化が多くの社会でなされますが、
「人間(じんかん)」の本質はそのような階層分化ではないこと、
すべてが「天の子」という点において、
皇帝も民衆もみな同じ存在に過ぎない。
そうした人間(じんかん)本来のありようを体現するのが「童子(どうじ)」であると。
児童観、子ども観を根本から見直すべきなのです。
「子ども」は未完成な存在、教育によって大人へと成長させなければならない、その途中経過にある存在、
というのが常識的な見方考え方ですが、
本来そうではなかった。
「天の子」として、
時間空間人間(じんかん)、
即ち宇宙の摂理に則(のっと)った
始原的で、かつ究極の生命存在が「童子」であると、
古人は直感していました。
大人になるほど、理想の人間像からは離れ、堕落してゆくわけです。
そのことを、大人はもっと謙虚に自覚すべきなのでしょう。