(荘子三十七 天地篇第十二)
天地は大なりと雖(いえど)も、其の化は均(ひと)しきなり。
万物は多しと雖も、其の治は一なり。
人卒は多しと雖も、其の主は君なり。
君は徳に原(もとづ)きて天に成る。
故に曰く、玄古の天下に君たるは、無為(ぶい)なり。
天徳のみと。
【大体の意味内容】
天地は広大であるけれども、その中で生まれ育つ者は、みな均(ひと)しく造化のエネルギーを享受できる。
万物は夥(おびただ)しく多用に存在しているけれども、根源的な一つの原理によって、紊(みだ)れることなく治まっている。
人民も多数で多様に存在しているが、それが平和に治まるための主は、君徳である。理想人格である「君」は、徳にもとづいた生命活動によって、天そのものとひとつになる。
(今日の天気と、自分の元気とが一つになる感覚を持てれば、決して間違いを犯すことはない)。
ゆえにこういわれている、
「太古の天下に君臨し得たものとは、無為自然の存在であった。
それは人間の小賢しい浅知恵や欲得ずくの行いを排して、一見、無為(ぶい)のまま自然(じねん)に任せるように見えて、
天の徳だけに従えるよう、己の心身を練ったものである」と。
【お話】
この六枚の写真は何かわかりますか?
苔(こけ)と、苔(こけ)みたいな植物に花が咲いたものです。それぞれの種類の名前は私も知りませんが(茶色のは「杉(すぎ)苔(ごけ)」というそうですが)、カメラのレンズを近づけて、「接写モード」で撮影すると、びっくりするくらい美しく撮れます。
苔は種類によっては、大地を覆(おお)う美しい翡翠(ひすい)の絨毯(じゅうたん)を為すものもあれば、汚い黴(かび)のようなものもあります。ですがその黴(かび)も含めて、普通に歩いていては存在にすら気付けないちっぽけなものも、こうして凝視すると、そのまま「これが宇宙の美しさを代表しているのではないか」と思えるほどであるのです。まさに「天地は大なりと雖(いえど)も其(そ)の化は均(ひと)しきなり」です。
あくせくと毎日を過ごすのではなく、この世の大きなもの、小さなもの、いろいろなもののたたずまいを見つめなおしてみましょう。「なんで今まで気がつかなかったんだろう」と驚いたり呆(あき)れたりするほど、この世は結構、美しいものに満ち満ちています。そのことを知れば、「まだ気づいてないものがたくさんあるかも」とワクワクしながら日々過ごすことができようというものです。それって、幸せなんじゃないでしょうか。だし、わざわざ醜(みにく)い生き方へ逸脱(いつだつ)しようという気もわかせる必要、感じなくなるのではないでしょうか。