子曰く、君子は泰(たい)にして驕(おご)らず。小人は驕りて泰ならず。
剛毅木訥(ごうきぼくとつ)は仁に近し。
【大体の意味内容】
先生はおっしゃった。
「君子は泰然とした大河の流れのように、ゆるやかで高ぶらず、平凡に見えて偉そうな感じがしない。
小人は驕慢でやたらと人を見下し馬鹿にすることで自分を偉く見せようとし、人としてのゆとりが感られない。
仁徳豊かな人には次のような四つの徳が備わっている。
剛…どんなものでも一刀両断に立ち切る強さ。きっぱりとした決断力。
毅…どんなプレッシャーに対してもくじけたり折れたりしない意志の強さ。ものに動じない胆力。
木…素朴で飾り気がない。地味だが次第に味わい深さが出てくるもの。
訥…無口、口べた、どもり。あまりにも深い思考が、軽々しく言葉を連ねるのを妨げる。
派手さや華やかさはなくとも、本質的な強さを備えた人が、ほんとうに優しい人なのである。」
【お話】
「雑談力」というのが「コミュニケーション能力」の最も高度な表れとしてもてはやされています。
様々な話題を提供できたり、あるいは対応できたり、相手への関心を示して多くを語らせたり、自分のことを、失敗談も含めて面白おかしく語りだしたり、
そうして一緒にいて楽しい、幸福な気分にさせてくれる人、と認められるような力を備えること。
そうした能力を、これからのグローバル社会での交渉力養成とセットで奨励(しょうれい)する風潮が強まっています。
これも確かに、立派な力には違いありません。ですが本当のコミュニケーション能力とはそれだけでしょうか。
以上のような風潮はおそらくいつの時代にもあって、二五〇〇年前の孔子はそんな能力ばかりを求める圧力に対して警鐘(けいしょう)を鳴らしたのかもしれません。
人間は本質的で深い世界に触れたとき、言葉を失い、でもそれを何とか人に伝わるように表現しようとして苦悩します。
そんな苦悩が形となって絵画や彫刻、音楽、特殊文学などになっていったかもしれません。
そしてそんな苦悩から訥々(とつとつ)と顕れるものにこそ、人の人生を変えたり、決定づけたりする最高の力が、
宿っているのではないでしょうか。