初春(しょしゅん)の令(れい)月(げつ)にして、
氣(き)淑(よ)く風(かぜ)和(やわら)ぎ、
梅(うめ)は鏡(きょう)前(ぜん)の粉(こ)を披(ひら)き、
蘭(らん)は珮後(はいご)の香(こう)を薰(くん)ず。
曙(あけぼの)の嶺(みね)に雲(くも)移(うつ)り、
松(まつ)は羅(うすぎぬ)を掛(か)けて蓋(かさ)を傾(かたむ)け、
夕(ゆうべ)の岫(くき)に霧(きり)結(むす)び、
鳥(とり)は糓(しらぎぬ)に封(こ)めらえて林(はやし)に迷(まよ)ふ。
庭(にわ)に新蝶(しんちょう)舞(ま)ひ、
空(そら)に故雁(こがん)帰(かえ)る。
ここに天(てん)を蓋(きぬがさ)とし、
地(ち)を座(しきい)とし、
言(こと)を一室(いっしつ)の裏(うち)に忘(わす)れ、
衿(えり)を煙霞(えんか)の外(そと)に開(ひら)く。
淡(たん)然(ぜん)と自(おのずか)ら放(ほしいまま)にし、
快(かい)然(ぜん)に自(おのずか)ら足(た)る。
【大体の意味内容】
初春(しょしゅん)正月(しょうがつ)は令(きよ)らかな霊気(れいき)に満(み)ちて、
風(かぜ)は和(やわら)かにそよぐ。
梅(うめ)は鏡(かがみ)に映(は)える女(おんな)の白粉(おしろい)のように白(しろ)く、
蘭(らん)は帯(おび)に珮(は)いた匂(にお)い袋(ぶくろ)のように薫(かお)っている。
夜明(よあ)けの嶺(みね)に雲(くも)が移(うつ)ろい、
それはまるで松(まつ)が薄絹(うすぎぬ)を蓋(かさ)としているようなありさまだ。
やがて夕(ゆうべ)に山(やま)のくぼみから霧(きり)が立(た)ち込(こ)めてくると、
鳥(とり)は白(しら)絹(ぎぬ)にからめとられたように林(はやし)の中(なか)をさまよう。
庭園(ていえん)に何(なに)かひらめいているのは今年(ことし)の蝶(ちょう)なのだろうか。
空(そら)には去年(きょねん)来(き)た雁(かり)が帰(かえ)ってゆく。
これは夢想(むそう)の世界(せかい)なのか、
天(てん)を笠(かさ)とし地(ち)が座席(しきい)となったようだ。
言葉(ことば)は邸宅(ていたく)の内(うち)へ忘(わす)れ去(さ)り、
胸襟(きょうきん)は立(た)ちこめる霞(かすみ)の外(そと)へ開(ひら)く。
自分(じぶん)という一個(いっこ)の輪郭(りんかく)が曖昧(あいまい)になり、
雲(くも)のごとく静(しず)かに淡(たん)然(ぜん)と解放(かいほう)されていく。
それが何(なん)の違和感(いわかん)もなく、
快(かい)然(ぜん)として充(み)ち足(た)りた心地(ここち)なのだ。
【お話】
覚えてますか、四月一日の新元号発表の際、漢字より先に「れいわ」という音を発声してくれました。
「霊和(れいわ)」のイメージがぱあーっと広がりました。あれはいいことをしてくれました。
そのあと「令和」という文字を示されて、「は?」と、思い切り違和感を感じつつも、
「まあ、妥当な画数か」と無理に納得しました。
確かに「れい」で始まる元号は千三百年前の「霊(れい)亀(き)(715-717)」のたった二年間以来例がありませんし、「霊」では画数も多すぎるし何しろ日本だけでなく世界中が怖がるでしょうから、「令和」でカムフラージュしておく方がよいでしょう。
今回の文章は、その「令和」の典拠とされている『万葉集』巻第五「梅花の歌三十二首」の序文です。
政府の発表でもその後のマスコミ報道でも、最初の一文しか引用しませんが、
この序文全体を読み、その後の和歌群を一通り読むと、この元号の考案者の意図がなんとなく見えてきました。
結論から言うと、やはり「霊和(れいわ)」なのです。
この序文を読むと、大宰府(だざいふ)の帥(そち)(長官)大伴旅人(おおとものたびと)の邸宅で宴会を開き、梅の花に関する歌を詠(よ)みあった話、とされています。
のんきな場面と思われるかもしれませんが、そうではありません。
武将としての功績もあった大伴旅人は、その武威(ぶい)を警戒されて、大和(今の奈良県)から遠く隔(へだ)たった筑前(ちくぜん)国(のくに)(現福岡県)の大宰府の長官として、老年に至るまで中央政界からは遠ざけられます。
藤原氏を中心とした、物部(もののべ)氏や蘇(そ)我(が)氏のグループによる陰謀です。
こうしてその旅人(たびと)を中心として形成されたサロンは、
『老子』の影響も受けた反権力、反政府の気概(きがい)に満ちたものだったのです。
命あるものの全てが、その生命の輝きを発揮し始めるのが春です。
そしてどんなに厳寒の中に在っても、その春の気を真っ先に感じ取って花咲(はなひら)く霊木(れいぼく)が、梅です。
梅の開花に呼応して、雲がこの世の自然界を覆い、
そうした霊気の中で、旅人たちもこの世の秩序から逸脱して霊的な存在へと昇華してゆく。
一個の人間としてのちっぽけな輪郭が熔解して、宇宙そのものと共鳴一体となる。人間界の言葉を忘れ、
この小さな身体を雲散霧消させようという境地は、確かに老子荘子の「道・徳」原理に通じると同時に、一切の権威・権力から自由であろうとする宣言でもあります。
同時に、これより後世の平安時代に成立した「竹取物語(かぐや姫の物語)」の元型がここにあったのだと思わされます。
この梅の花三二首のあと、関連する歌が挙げられますが、
「故郷を思う歌」二首が、「雲に飛ぶ薬」をテーマにしています。
この「雲に飛ぶ薬」という仙薬(霊薬)は、服用することで「雲に飛ぶ」だけでなく、
變(お)若ちる、すなわち若返り不老長生するというのです。
「竹取物語」のラストシーン、かぐや姫が不老長寿の薬を天皇にプレゼントし、
自分は月世界へと飛翔する仙薬を喫(の)んで、地球界でのことをすべて忘れてしまうという場面に、見事に受け継がれていたのだと気付かされました。
反権力とは、既存の権力体制を否定することではなく、その権力体制を包摂する宇宙になること、すなわち「霊和」というダイナミズムなのでしょう。
現政府は、こうした背景(元号考案者の意図も含めて)に、全く気付いていない。
新天皇も、そこまでは知らないかもしれませんが、おそらくは元号考案者の意図と同じ意図をもって、これからの「象徴天皇」のあり方を、追求してゆくのだろうと考えられます。
上皇(平成天皇)が「沖縄重視」の姿勢を貫くことで政府権力と壮絶な戦いをしてきたように…
今度トランプくんが日本に来て、新天皇皇后両陛下を手玉に取ろうとしています。
案外、きちんと英語で対応する夫妻の、しかもトランプくんの過去の苦労をねぎらうお言葉に、七十歳越えた赤ん坊が泣きじゃくるシーンも見られたりして。
となったら世界が驚倒(きょうとう)するでしょう、見物(みもの)ですね。