人を治め天に事(つか)うるは

(老子道徳経 下編徳経59)

人を治め天に事(つか)うるは、嗇(しょく)に若(し)くは莫(な)し。
夫(そ)れ唯(た)だ嗇、是を以て早く服す。
早く服するは、これを重ねて徳を積むと謂(い)う。
重ねて徳を積めば、則ち克(か)たざる無し。
克たざる無ければ、則(すなわ)ち其の極を知る莫し。
其の極を知る莫ければ、以て国を有(たも)つべし。
国を有つの母は、以て長久なるべし。

是を、根を深くし柢を固くし、長生久視するの道なり、と謂う。

【大体の意味内容】
人を治め天に仕(つか)えるには、
過剰な利益を削り過剰な支出を抑えるように、得るも払うも節制することが第一である。

いずれにおいても過剰さを慎むのが「嗇(しょく)」である。
そうすることで、早く宇宙の道理に従える自由を得られる。

本来の「理」に従い、「理」の中に在ることが、
自分自身の心身が最ものびやかに活動できる合理性という「徳」を「積む」ということになる。

今日、自分本来の「合理」をひとつ見出し、明日また別の合理を見出してゆけば、
その「徳」は足し算ではなく掛け算の「積」として大きく確かなものとなってゆくであろう。

こうして「徳」を「累積」してゆけば、いかなる障害があろうとも、克服できないものはない。

そもそも「理」の中に在れば、障碍(しょうがい)を困難とは思わないのだから、
自分の究極の限界などというものを知ることがないのである。

何事も限界とは思わぬ志が、国を生かしめる。

国を生かすための母(もと)が「嗇(しょく)」であり、それによって国も人も長久の命脈を保てる。

これを、「物事の根柢を深く固め、長(とこ)しえに久しく生きるの道」という。

 

【お話】
私は小学3年生から5年生までの間、剣道を習っていました。
左(ひだり)利(き)きの私は、右手を上、左手を下にする竹刀の持ち方に違和感を覚えましたが、
「左手で竹刀の重みを支えなければならないから、左利きのほうが有利なくらいだ」と師範に言われ、そうかと思って取り組んでいました。

が、どうしても、すぐに疲れてしまいました。

ほかにもいろんなスポーツに取り組んでいたので体力にも腕力にもある程度自信はあったのに、
剣道だけは、いくら竹刀を軽くしても、友だちより先に腕が上がらなくなってしまうのです。

結局、段を取ることもなくやめてしまい、ずっと謎のままでいたのですが、
後年、ある剣道家(剣道研究者でもある方)と話す機会があって、この謎について質問しました。

氷解しました。

右(みぎ)利(き)きの人は、力が弱い左手で下を持つから、竹刀全体の重みを支えるだけであとは右手に任せる。
力の強い右手が負担の軽い上のほうを持って、太刀筋(たちすじ)をコントロールする。
両手とも、無駄な力を入れないからバランスが取れてしなやかな太刀振(たちふ)りができるのだ、と。

目から鱗(うろこ)でした。

剣道の決まりごとになっている、右上・左下の竹刀の持ち方は、
右利きにとってこそ合理的であって、左利きにとってはアンバランスもいいところだったわけです。

非合理的で、「身体道徳」に反するものでしかない。
くだんの剣道家の方も「(剣道界は)硬直してる」と独(ひと)り言(ご)ちてらっしゃいました。

私は「型」は大事だと思っています。

でも、生きた「理」を考えない硬直した形式論は、「型(かた)」ではなく「枷(かせ)」に過ぎません。「手枷(てかせ)」「足枷(あしかせ)」「首(くび)枷(かせ)」の「枷(かせ)」です。初めから「自由を奪う」目的のもの。

どんな分野でも、最初はお手本のまねをして、基本の「型にはまる」練習を積みますが、まずは多くの人に共通の「合理」を体得する。
それから工夫を重ねてて「型破り」していきます。

「型にはまる」ことは不自由になることではなく、自分の心身にとってなるべく自由を得られる流れを獲得することなのです。

段階が進んでくると、いよいよ、他人とは違った自分独自の「理」を追求して、「型破り」するわけです。

 「型」がなければそれを「破る」ということもできません。
初めから「型」も何もないのは「単なる「型なし」です。
それではいくらカッコつけても「様(サマ)にならない」。
それを「無様(ぶざま)」といいます。

自分の身の周(まわ)りにある様々な「お手本」は、ぜひ大事にしましょう。