予又市中を去ること十年計にして

(授業前の素読 松尾芭蕉『幻住庵記』2)

予又市中をさる事十年(ととせ)計(はかり)にして、
五十年(いそじ)ややちかき身は、蓑虫のみのを失ひ、蝸牛(かたつぶり)家を離て、
奥羽象潟(きさがた)の暑き日に面(おもて)をこがし、
高すなごあゆみくるしき北海の荒磯にきびすを破りて、
今歳湖水の波に漂。

鳰(にお)の浮巣の流とどまるべき蘆(あし)の一本(ひともと)の陰たのもしく、
軒端茨(ふき)あらため、垣ね結添(ゆいそえ)などして、
卯月の初いとかりそめに入し山の、やがて出(いで)じとさへおもひそみぬ。

【大体の意味内容】
私もまた、都会の生活から離れて十年ほどたち、そろそろ五十歳にもなろうとしている。
蓑虫がその住み処である蓑を失い、
蝸牛(かたつむり)が殻を離れたように、
自分の住み処を捨てて旅に出た。

東北地方象潟(きさがた)の焼けつくような日差しに顔を焦がし、
砂丘続きの歩きにくい浜辺を歩いてきた。

こうして北海の荒磯で踵(かかと)を傷つけ、
ようやく今年、琵琶湖のほとりに漂い辿(たど)り着いた。

鳰(にお)の浮き巣が流れ流れて一本の葦の陰を頼もしく思ってとどまっている。
それと同様にして、この湖のほとりの小さな庵(いおり)に、軒を葺(ふ)き替え、
垣を付けたりして、人が住めるようにした。

四月の初め、ほんのかりそめの住まいにと思って入った山なのであったが、
もうこのまま、この山を出まいとまで思い始めてしまった。