「彼」は一番小柄でやせっぽちなのに、大きな相手に正面から挑(いど)みかかって強引に、片手で投げ飛ばそうとさえしていました。
しつこいくらいに投げにこだわっては跳(は)ね飛ばされ、軽々と持ち上げられては見苦しく足をばたつかせながら場外へ放り出されていました。
たまたま投げる体勢に入っても、肩の骨を外すという怪我(けが)を繰り返しました。
アナウンサーも解説者もそこらのおっちゃんもだれもかれもが「あいつは馬鹿だ、身の程知らずで、相撲をなめてる!」と散々こき下ろしていました。
それでも鬼のような形相で相手をにらみつけ食い掛かっていく「彼」に、中学生の私はしびれ、ドキドキしながら応援していました。
不器用で、やられてもやられても咆哮(ほうこう)しながら相手に襲いかかる姿を、自分に重ねていたものです。
そんな「彼」、大横綱千代の富士が、61歳の若さで逝(い)ってしまって2年たちますが、受験生の形相(ぎょうそう)が精悍(せいかん)になってくるこの時期になると、あの「初期の」千代の富士が懐かしく思い出されます。
不細工(ぶさいく)な殺気を放ちながら「本気(狂気)」むき出しにする人なんて、もういないかと思っていましたが、
怪我に耐えて果敢に4回転ジャンプにチャレンジした羽生結弦選手の形相には思わず見とれてしまいました。
肩の脱臼(だっきゅう)に耐えて攻め込む千代の富士を彷彿(ほうふつ)させるものです。
リオ・オリンピックの時に、どの競技でも、日本人選手が共通して断言していたのが、「(自分たちの)練習量は世界一」でした。
勝敗に関係なく、競技の途中でだらしなくヘタる様子を見せない日本人選手たちの姿が、それを雄弁に語っていたように思います。
愚直(ぐちょく)に、圧倒的な量で努力するのを「勤勉な日本人」と揶揄(やゆ)する向きもありますが、どう見られても自分たちがかかわる世界に対して真剣に本気で備え、全身全霊で取り組むところに本質的な強さがあるし、見る人の心を動かす力を発揮します。
メダルの色とかの結果以上の、確かな成果だと思います。
努力の量と結果は必ず比例します。そうしたことを彼らは如実(にょじつ)に示してくれていたと思います。
もちろん、本番という場の独特な力学も働きますので、思わぬ事故というのもあり得ますが、「霊長類最強女子」吉田沙保里さんの言葉も肝に銘じておくべきと思いました。
「オリンピックには魔物が棲(す)んでいるというけれど、魔物とは、自分の心だよ」
自身がその魔物に沈められる、そんなことも起きるのが本番です。ですが、彼女がいなければメダルラッシュもなかったわけで、
「世界一の努力」は金以上の輝きを放っています。