中江兆民『自由新聞』第一号社説より
「リバティーモラルとは我が精神心思の絶えて他物の束縛を受けず、完然発達して余力なきを得るを言うこれなり。
乃(すなわ)ち天地に俯仰(ふぎょう)して愧怍(きさく)するなく、これを外にしては政府教門の箝制(かんせい)する所とならず、これを内にしては五慾(ごよく)六悪(ろくあく)の妨碍(ぼうがい)する所とならず、いよいよ進みて少しも撓(たわ)まざる者なり。」
【大体の意味内容】
リバティーモラル(Liberty Moral自由道徳)とは、我々の精神や感情、思考が、他人から縛られたり強制されたりすることなく、
天然自然の摂理に則(のっと)って発達し、余分な権力や暴力、様々なパワハラを行使するような卑劣さから解放された状態のことである。
つまり、天を仰ぎ、大地に俯(うつむ)いて天神地祇に正対しても何ら恥ずべきところの無い生きざまである。
このリバティーモラルを我が身の外へ表現する際には、政治権力や宗教的権威に服従することもなければ、不本意に捻(ね)じ曲げられることもない。
リバティーモラルをわが身の内に及ぼすに当たっては、財・色・飲食・名誉・睡眠を求める五つの欲望に妨げられることはない。
同様に、魔がさす時・悪所への興味・人格の暗黒面・邪な見方・妄想・正義否定といった、誰にでも起こり得る六つの悪によって、碍(さえぎ)られることもない。
そういったことで変形変容することなく、真っすぐに発露される気概(きがい)なのである。
【お話】
自由と道徳とは、深く考えないでいると反対のものであるかのように対立してしまいます。
「自由」は「勝手気まま、わがままし放題」のことと思われがちで、
「道徳」は「お年寄りに席を譲るべき」「いじめをしてはいけない」といった義務でがんじがらめにされることと考えられてしまいます。
でも本当はそのような表面的なことではありません。
「自由」とは「自分に由(よ)る」という字義どおり、他人に頼ったり他人のせいにしたりせず、すべて自己責任で生きるという厳しい道で、
そのためには人としての道に反するような態度・振る舞いをしていてはお互いに危険です。
権力や権威に対しては強力に対抗し、決して自分をゆがめないことと、
たとえ敵であってもその立場や考えを尊重し、全力で保障するのも、
大事な「自由」であり、同時に「道徳」なのです。