(授業前の素読 松尾芭蕉「幻住庵記」6)
すべて山居といひ旅寝と云、さる器たくはふべくもなし。
木曽の檜笠、越の菅蓑計、枕の上の柱に懸たり。
昼は稀々とぶらふ人々に心を動かし、
あるは宮守の翁、里のおのこ共入来たりて、いのししの稲くひあらし、兎の豆畑にかよふなど、我聞きしらぬ農談、
日既に山の端にかかれば、夜座静に月を待ちては影を伴ひ、
燈を取ては罔両(もうりょう)に是非をこらす。
【大体の意味内容】
いったい、山住まいではあり、旅先ではあり、これという器物を備える必要もない。
ただ木曽の檜笠と、越路の菅蓑だけを枕の上の柱に懸けた。
昼は、まれにたずねてくる人々をもてなしたり、何かといただきものをしてありがたいことだと感謝する。
あるいは宮守の老人や、里の男たちがやってきてはあれこれと四方山話(よもやまばなし)をして行ってくれる。
猪が稲を食い荒らすとか、兎が豆畑にやってくるとか、初めて聞く野良話が面白い。
日が山の端にかかるころ、夜の座にすわって月を待つと、やがて月ものぼりわが姿に影が生まれる。
燈火をかかげると、ゆらゆらと影の外側に薄い罔両(もうりょう)が生まれてくる。
『荘子』における影と罔両(もうりょう)の問答も思いだされ、
私はいったい何によって生かされているのだろうと、思いを巡らせてしまうことだ。
【お話】
「罔両と影の問答」は『荘子』斉物論第二(三十五)に出てきます。
罔兩(もうりょう)、景(かげ)に問いて曰わく、
「曩(さき)には子(し)行き、今は子(し)止(とど)まれり。
曩(さき)には子(し)坐(ざ)し、今は子(し)起(た)てり。
何ぞ其れ特操(とくそう)無きや」と。
景(かげ)の曰(い)わく、「吾れは待つ有りて然(しか)る者か。吾が待つ所も、又待つ有りて然(しか)る者か。
吾れは蛇蚹(だふ)・蜩翼(ちょうよく)を待つか。
悪(いず)くんぞ然(しか)る所以(ゆえん)を識(し)らん。
悪(いず)くんぞ然(しか)らざる所以(ゆえん)を識(し)らん」と。
【大体の意味内容】
ある時、影をふちどる罔両(もうりょう)つまり薄影(うすかげ)が、影に質問した。
「君は、さっきまで行(ある)いていたのに今は立ち止まり、さっきまで坐っていたのに今は起ち上がっている。
どうしてそんなに主体性のない動き方をするのだ。あんまり節操がなさすぎるではないか(もっとしっかりしてくれないと、僕まで迷惑するじゃないか)」と。
すると影が答えた。「なるほど、わしは頼るところ、つまり人間の肉体という形につき従い、それが動くままに動いているのかもしれない。
だが、わしがつき従っている人間の形そのものも、また別に頼るところがあり、その何ものかに従って動いているのではあるまいか。
わしは、蛇(へび)の腹のうろこや蝉の羽のような、はかないものを頼りにしていることになるのだろうか。
自然の変化のままに従っているわしにとっては、なぜそうなるのかも分からないし、なぜそうならないのかも分からない」と。
「主体的」に生きていると思いこんでいる私たち人間も、じつは親をはじめいろんな人たちの世話になって生かされていますし、
その親たちもまた、その前の親、社会的常識や制約、自然条件など様々なことの影響を受けて、
やはり生かされています。
影響を及ぼす原因に注目すればまた、その原因となっている者も、またさらに別の物の影響を受けている。
どこまでさかのぼっても、唯一絶対の根源など見つかりません。
キリスト教などの唯一神を信仰する人たちにとっては、その唯一絶対の神がすべての根本原因なのですが、証明できることではありませんね。
少なくとも私たちは、何か大きな意思のような者によって生かされていると考えればよいのでしょう。
全てから独立した「自分」とか「主体性」などと考えること自体、はなはだしい傲(おご)りであり、はかない妄想に過ぎないと、
『荘子』は伝えようとしているのかと思います。
人生そのものを旅として生きる芭蕉も、そんな自身の生命存在が、常に何か大いなるものに翻弄(ほんろう)され生かされていることを実感しているのでしょう。
またそうして、自分の中に在る宇宙原理に従って生きるということが、
大きな意味での「主体」的生活であるとも、悟っているのでしょう。
「罔両」のキーワードで荘子の場面の画像がないかなとネットで検索してみたら、山下和也さんという方の「罔両画」に出くわしました。
仏画等の模写や美術品の修理などの仕事を経て、「破墨」という技法にたどり着き、神楽舞の女性舞踏家とのコラボをするなど、興味深い活動をしている人です。
その「罔両画(極端に薄い墨で描く絵)」のいくつか、「松風」「須磨」の連作を見ていると、
「須磨」の一枚に衝撃を受けました。
もともと、
「模写や修理をしている君の絵は『作品』ではないだろう」
と否定されたことへの違和感から追究が始まったそうです。
オリジナリティーは捨てて模写をすることから、その模写という絵から出るオーラがあるではないか。
そんな疑問を持ち続けており、自分の仕事に卑屈な感情は持てなかったようです。
すでにして、人間の影のそのまた罔両にこそ、その作品の「格」を決定づける力があることを感じ取っていたのでしょう。
そうした必然に導かれるようにして、山下さんは「罔両画」に出会ったようです。
別に『荘子』の内容はご存じない様子でしたが、図らずも荘子の思想を実践なさっているのです。
一見、ただの白い紙にしか見えない連作「須磨」のこの一枚、皆さんはどう見えますか?
作者に聞いたわけではありません、
私には白い闇にたゆとう海、そのうえにおぼろに浮かぶ満月が見えました。
何が見えてもよいのだと思います。
この絵は、私たちの心が映るスクリーンなのでしょうから。