(校舎だより『FlyingSeeds』10月号より)
「農耕を始めたことによって人類は文明を発展させ前進してきた」という通説に疑問を呈し、「むしろ穀物が選ばれたのは、支配する側にとって都合がよかったからではないか」とする興味深い説に触れました(平賀緑著『食べ物から学ぶ世界史』岩波ジュニア新書)。小麦大麦や米のような、固い殻に包まれた軽い種子である穀物は、長期保存ができ、輸送集積できるなど、「富」としての蓄積にも適していました。
ということから、穀物は「国家」が人々に課税して支配する手段としても便利だった。いや、人々を穀物に依存させ課税・支配するシステムを構築することで、「国家」が発展したというべきかもしれません。
日本列島の場合で考えてみると、縄文時代まではヒエ・アワや、晩期以降の米といった穀物には頼りすぎず、栗やドングリ・クルミなどの堅果類、魚介類、イルカなどの海獣、フキ・ノビルなどの山菜、熊・鹿・猪、キノコ類や山ブドウなどの果物、豆類等々、多種多様な旬(しゅん)の食糧を摂取して暮らしていました。要するに自然の世界で生き抜いているモノたちの生命力をおいしくいただいてそのパワーを獲得する生き方です。農耕牧畜の技術はあってもその方法に頼りすぎなかったのは、人工的に管理され養殖されたモノにはパワーがないと感得されたからでしょう。自然界のパワーに満ちたものが一級の食糧たりえたのに違いありません。
米が「主食」となり始めていった縄文晩期・弥生時代とは、中国の春秋戦国・秦・漢の戦乱期で、敗れた側の王侯一族等が日本に渡来し、縄文文明を駆逐して弥生文明を築き上げていったと考えられていますが、中国や朝鮮の言語が日本列島に浸透していない事実をかんがみれば、むしろ縄文文明が土台にあって渡来文化を受け入れ、もともとのアイデンティティーを維持しながら「弥生時代」と呼ばれる形に変貌していったと見るのが妥当でしょう。
その後も日本列島は海外から流入するものを自らの風土に適する形に消化し発展させる歴史を展開してきました。戦後のGHQ占領政策で小麦を強制普及させられても独自のパン食文化にアレンジして米食と両立させました。
今は水や種子、メディアや薬物などで外資による支配原理に従属させられようとしていますが、「負けるが勝ち」のニッポン伝統がきっと発動するものと、信じています。
『負けるが勝ち』の国ニッポン