司会者の声が嗚咽(おえつ)に変わり、詰まってしまう。続けられない。「がんばれ!」と会場から声が上がる。「金賞を…は、発表…します」。そのクラスの曲の前奏を奏(かな)でるという粋な発表形式だが、先生も泣いて指が乱れる。初音でその生徒たち、ハッとはするが確信が持てない。3小節くらい聴いてわっと弾(はじ)けた。飛び上がる生徒、号泣しだす生徒。前日のリハーサルでエンストした伴奏者も何かが決壊して涙があふれ出る。
司会のダンデ生も泣いている。悔しいのと、様々な難局を乗り越えてきた万感(ばんかん)に、圧せられてのことだろう。東中合唱コンクール閉会の辞を告げるべき進行役のダンデ生も泣き崩れ、会を閉じることができない。会場の生徒たちがみんな泣いている。嬉しいのと、悔しいのとがないまぜとなった。
まさに死闘といってよかった。
自然の猛威からの復興や死者たちへの鎮魂、自然からの祝福も享(う)け新たな生命への讃歌を奏でる。生々流転の哲理を彼らがどう「理解したか」よりも、「理不尽」に満ちたこの世の営みのなかで、自分たちは丸ごと受け止めながら、何かが刺さってきながら、生きて行くという実感を、深めていったことだろう。自分たちが歌う曲を最大限に表現したい。
「金賞」という、大人に設定されたマークでも、自分たちの燃焼を最大化する生命指標(ライフ・インデックス)、すなわちそのマークを得ることで、怨念も鎮魂も祝福も称揚も聖なる宇宙へ届く証となるような「モノ」に、なったのではなかったか。たいていのクラスが、バラバラな状態から始まり次第に一つに固まってゆくのは、そのような感覚が共友されていくことによってであったろう。
皆で唱和する曲想へ、のめりこむほどに「金賞」への思いは募り、本番は自然、意地と意地とのぶつかり合いの様相を呈した。
指揮者たちは派手なパフォーマンスではなく、合唱の波や渦を下支えし、誘導し、蓋(ふた)を開き解放しようとした。伴奏は自己顕示せず合唱の一音一音の脈動を確認せしめた。自由に独走するのとは勝手が違う、人間の声という不安定に揺らぎやすいものをその揺らぎまでも音楽として発揮させた。
全ての音質が異なる人間の声が最高の楽器であり、それらが組み合わさるから合唱は豊かな世界を顕現する。誠に美しい、死闘・激闘であった。
ただ普段の教室での嬌声(きょうせい)の大合唱は、ちょっと勘弁してほしい…
『史上最響』の死闘
