「天壌無窮(あめつちきわまりなし)」の神勅をかつて「天津血(あめつち)無際(きわまりなし)」と読んでみた。「天の血の世界は際限ない」ということで、雨の様な天水を含んだ泥濘(ぬかるみ)が「天津血(天の血)」ではないか。田植え祭祀の前に半裸の男たちが水田にダイブし泥まみれになる伝統行事があれば、現代でも若者たちがどろんこバレーに興じもする。天の血の霊力に浸ろうという心意伝承か。やがて泥濘は広大な泥海となり本当の海との際(きわ)や天と海との際もあいまいに融合したイメージへ広がる。
この様な清濁併せ呑む豊穣さが日本人の生活心情を支えているだろう。物事を必ずしも二元分割しない世界認識は、利害の対立があっても争うより和する道を模索してきた。それは西欧の弁証法(正-反-合)ではなく、対立の争点を曖昧にぼかし馴染ませるというやり方だった。一社会の頭領が民衆から搾取し横暴を働くのも、日本においては青人草(あおひとくさ)は争うを好まず受容することで世の所々に出血した怒りを熟(こな)れさせ撹拌(かくはん)してくれるのを知り、甘えているからだ。
伏魔殿から解き放たれた百八の「悪霊」たちはやがて腐敗した権力に立ち向かうため梁山泊に集う英傑衆となった。しかしその頭領は武技を持たず「及慈雨」とあだ名される仁徳者。「替天行道(天に替わり道を行う)」の志を立て大帝国に立ち向かう漢(おとこ)達の姿は古今東西の快哉を呼んだ。
本来政権を担うものが「替天行道」の「任務」を遂行すべきで、革命分子の「志」とされた時点で恥ずべきであろう。頭領たるものの本義を教えられてしまった不明を自覚できるならば。
腐敗権力に対し鷹揚な日本社会ではこの二千年間でも大きな内乱反乱は世界史に比してわずかなものであった。実際、為政者の中にも民の安寧と領内の安全保障に注力する「替天行道」実践者は少なからず、いた。「法」も利害対立の「調停・和解」を判例として積み上げられるものが多かった。
嗚呼それにしても、である。この70年程の、断続的ではあったが営々と続く政権の尾籠腐敗ぶりには正しく言語を道断される。清濁併せ呑み、臭いものに蓋で政治も民主主義も無用の長物と抛(な)げ棄(う)ち虐げられるがままの民衆も、これぞ日本的道徳に生きているということなのであろうか。「一億玉砕」の軍国主義は脱しても、宗主の言いなりに駆り出され人間の盾として共に血まみれるのは是とするのか。 大軍をもってしても、空気を読まぬ匹夫の志は奪えない。この意気の振舞いを「一票一揆」と呼ぶらしい。いずれ奪われ得る一票だから、私も行使する。
10月27日。主権者「国民」として立つか。主権放棄の「臣民」たるか、はて?
「替天行道」なるか10月27日